ティエリー・トグルドーの憂鬱
ひとりの中年男が文句を言い募っている。どうやら職業紹介所のようだ。結局は経験者しか採用されないのに、ここで専門技術の研修を受けたことで数か月も無断にした、と繰り返し述べている。男の名はティエリー・トグルドー。もう1年半も失業状態が続いている。
家では妻と障害をもつ高校生の息子の3人暮らし。それなりに楽し気な暮らしのようだ。ただ先立つものがない。ティエリーがようやく得たのはスーパーの監視員の仕事だ。巡回、監視カメラのチェック、見つかった万引き犯を個室に連れ込んで支払いをさせる…。
ある時、スーパーの事務員が客の割引券を自分の懐に入れているのが見つかる。彼女は叱責され解雇されるが、翌日職場で自殺してしまう。後日彼女には薬物中毒の息子がいたということが分かる。
監督はフランスの俊英、ステファヌ・ブリゼ。
「彼は私たちが毎日ニュースで聞く失業率の一面なのだ。新聞では2行で書かれていることの裏側には、人々の悲劇が存在している。」
ティエリーは明らかに解雇された職員の立場に近い。しかし今の職種は職員を糾弾する立場だ。ティエリーの憂鬱はそこからくる。原題は「La loi de marche」(市場の規則)だが秀逸な邦題だと思う。
「工場が閉鎖されてから、彼は20か月にわたって失業し、今やどんな仕事でも引き受けるしかない。結果として、道徳的に受け入れられない状況にそれぞれが置かれることになる。彼はどうすればいいのか?仕事を続け、不公正なシステムの共犯者になるべきか?それとも離職して、不安定な生活に戻るべきか?それがこの映画の中心にあることだ。システムの中の人間だ。」
システムは効率的に稼働するためにバグを取り除いてゆく。人間はもともとバグを抱えた存在で、みなそれと折り合いながら生きている。だからかシステムの中に入ると、人間的な人ほどシステムのバグになる可能性が高い。これも憂鬱を加速させる。
そしてそれと意識しないうちに、誰もがシステムの共犯者として、バグの人間を追い詰める。
「誰も本当に卑劣な人間な訳じゃない。しかしそれぞれの方法で誰もが、世界の暴力に参加してしまっている。これが私たちの世界なのだ。」
割引券を自分のものにした職員は、システムにとってはバグだ。しかし、ティエリーにとっては自分自身と変わらない。彼は人の痛みを感じ取ることができるために、やがて憂鬱さは極限にまでくる。
ティエリーは最後にある決断をするが、人間の尊厳を守るとか、そんな大げさなものではない。ただ映画は、人は何のために生きるか、その答えを探している。探そうとするその意志が希望である。
監督:ステファヌ・ブリゼ
脚本:ステファヌ・ブリゼ、オリヴィエ・ゴルス
主演:ヴァンサン・ランドン
フランス 2015 / 92分
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イレブン・ミニッツ
不思議な映画である。何が不思議かと言えば、人の数だけあるような人生の喜怒哀楽が、この映画はすべて「無」だと語っているのだ。つまり、人生は空に現れた小さな黒いシミのようなものにすぎない、と。
午後5時。映画監督の宿泊するホテルの一室に招かれたひとりの女優。女優の夫は嫉妬にかられてホテルに向かう。そのころ、ホテルの周囲では様々な人たちが、それぞれの生活で悪戦苦闘していた。
配達先の人妻と情事を楽しむ配達夫、若い女性に唾を吐きかけられるホットドック売り、思い悩んだ末に質屋に強盗に入ったはいいが主人が首を吊っており、失敗に終わった若者…。そして、11分後に起きる「ある瞬間」に向かって映画の時が刻まれてゆく。
監督はポーランドの巨匠、イエジ―・スコリモフスキ。すでに78歳である。
「実のところ、登場人物の心の軌跡であるとか、動機を追ったり、もっともらしいストーリーラインやプロットポイント(筋を別の方向へ転回させるプロット上の重要なできごと)を提示したり、あるいは始まりと真ん中と終わりがあることを前提に考えたりすることには興味がない。」
ここに物語はない。人生の断片があるだけだ。ただ何事かが起きる予感が見るものをぐいぐい引っ張ってゆく。登場人物の幾人かは空に小さな黒いシミのようなものを見る。それが何であるのか。最後の最後に暗示されるそれは、いかにも不気味にこの世界をシンボライズする。
しかし人の世界を俯瞰すると、こうも滑稽なものになるのか。サム・ペキンパー監督の「わらの犬」という映画がある。タイトルは、老子の言葉、
「天地は仁ならず 万物を芻狗となす」
(天地自然は非情で、すべてのものをわらの犬のようにあつかう)
から採られているそうだが、「イレブン・ミニッツ」の登場人物たちはまさしく「わらの犬」だ。人間なんてそんなものだと、冷徹に精緻にそのことを見せつける。ただ登場人物それぞれの滑稽さが、逆にその悲惨を救ってはいるのだが。
再びしかし…と考え込んでしまう。
この世界に生み出される多くの映画が希望のかけらを捨ててしまう。この不条理な現実が横行する世界で、希望のない映画は不毛である、と言ってしまいたい誘惑にかられる。安易な希望はごまかしであり絶望をかえって深めるということは、容易に想像がつくことだけれど。そして捨てるよりも生かすほうがはるかに困難な道なのだろうけれど。
監督・脚本:イエジ―・スコリモフスキ
主演:ヴォイチェフ・メツファルトフスキ、パウリナ・ハプコ
公式サイト
http://mermaidfilms.co.jp/11minutes/
太陽のめざめ
フランスの青少年裁判所。6歳の子どもと、生まれたばかりの赤ちゃんを連れた母親が、判事に責められている。学校に行かせていないというのが理由のようだ。逆上した母親は、「子どもなんてウンザリ マロニーも荷物もいらない!」と荷物を叩きつけて出て行ってしまう。置き去りにされたことを知ってか知らずか、目を丸くして眺めている6歳のマロニー。物語はこの日から10年後を描く。
同じ青少年裁判所。17歳になったマロニー、そして同じ母親。想像通りマロニーは非行を繰り返し、何度もここにやってくる。判事も10年前と同じ、カトリーヌ・ドヌーヴ演じるフローランス。マロニーはいつも何かにイライラし、暴力を繰り返す。そしてついに矯正施設に送られることになる。
監督は「なぜ彼女は愛しすぎたのか」のエマニュエル・ベルコ。
「私には保護司をしているおじがいて、彼は毎夏、ブルターニュの海辺で、非行に走った子どもたちや犯罪に手を染めてしまった子どもたちのためのキャンプを運営していました。私も子どもの頃、そのキャンプに参加する機会があったのです。その時出会った少年・少女たちにショックを受けたのを覚えています。彼らのふてぶてしさや権威とか決まりごとに対する反抗心が、私には新鮮でした。と同時に、保護司たちが彼らを<正しい道>に戻そうとしている姿にも心を動かされました。」
マロニーは、施設の教官、新たに担当になった保護司ヤンの粘り強い働きかけで、少しずつ心を落ち着かせてゆく。しかし、マロニーに否定的な人間に会うとすぐに反転する。落ち着き逆上し落ち着き、その繰り返し。そんな中、マロニーは施設の教員の娘テスと出会う…。
人は変わることができるのか。変われると信じているからこそ、保護司たちは我慢強く働きかけるのだろうが、生まれつきの性格と言うものはどう関係しているのだろうか。精神科医の斉藤学氏がパンフレットの解説でこう書いている。
「人は生まれつき邪悪な妄想を抱える存在。そこから他者への善意と思いやりを育ててゆくもの。現代精神分析はこの『思想』から始まった。」
そして人が「社会化」するために、「懲罰の受容」が必要であり、それはすなわち「懲罰する人の中に愛を見出せるようになることだ」という。
「あんたは俺に何をしてくれたんだ」
マロニーは何度もこう叫ぶ。
自分の感情を抑えられない、すぐ暴力を振るう、社会ルールを守ることができない、こういう若者を辛抱強く見守り導く人たちがいる。人間性に対する絶大な信頼がないと出来ないことだと思う。すべての人間はもともと邪悪な妄想を抱えており、それを両親など他者の働きかけで矯正していくものなら、小さいころに矯正の機会を失くした者にもチャンスはあるはずだ―。理屈はそうだが実践するのは相当に難しいと、この映画は教える。
映画は決して楽観しない。かつて非行少年だった保護司のヤンや、ベテラン判事の人間的な感化力をもってしても溶かすことの出来ない氷の心がある。それはそれでしようがないというような判事の達観が、なぜかすがすがしい印象を残す。終盤でマロニーに希望の芽が生まれるが、それが再び不幸の芽に反転しないことを祈らずにはいられない。
監督・脚本:エマニュエル・ベルコ
主演:カトリーヌ・ドヌーヴ、ブノワ・マジメル、ロッド・パラド
原題:La tete haute
フランス 2015 / 119分
公式サイト
いしぶみ
暗闇の中、綾瀬はるかの朗読が静かに始まる。背後に古びた金属のような壁がある。その壁には中学生になったばかりの子どもたちの姿がぼんやりと映し出される。広島二中一年生たちである。昭和20年8月6日、生徒たちは建物解体作業のため朝早く本川の土手に集合していた。
「わずか五百メートルの間近にいた広島二中の一年生は、閃光に目を焼かれ、服は燃えだし、そして小さなからだは地面にたたきつけられ、十メールも吹きとばされたのでした。」
床にはいくつもの木箱。その一つに朗読している内容の子どもが大きく映される。
「岡田彰久くん。『腰まで砂に埋まったが、気がついて、燃える砂を手で掘ってはいでた。』原子爆弾のものすごい熱で、そのとき砂も燃えたのです。」
大やけどを負い、猛火に追われて川に飛び込み、家に帰りつこうとして道端で倒れ…。広島二中生のあの日の事実を遺族の手記からよみがえらせてゆく。
この映画は、1969年に広島テレビで放送された番組を是枝裕和監督がリメイクし、去年放送された番組をさらに再編集した。
「『いしぶみ』では、もう少しフラットに、被害者寄りではないポジションでの朗読にしようと考えたので、綾瀬はるかさんには「子どもを戦争に巻き込んでしまったことに罪の意識を感じ、自責の念を持っている旧制・広島二中の先生」の立ち位置で読んでもらいました。だから根底に流れているのは悲しみより、自分に対して、時代に対しての怒りです。」
(東洋経済オンライン記事から)
是枝監督は、被害体験を語るだけではアジアで共感されないとし、この作品で被害体験を相対化するべきという問題意識を投げかけている。
「広島・長崎を語り続けることは大事なことだし、あの戦争を経験した一般の人が、それを被害体験として語らざるを得ないことは、自分の親を見ていてもわかります。(…)だからこそ、経験していない人間が戦争を語る意味があるとすれば、被害体験を相対化する、その一点だろうと。」(パンフレットから)
そのため試行錯誤し、たまたま生き残った二中の生徒の証言を入れることにした、という。ジャーナリストの池上彰氏が彼らを訪ね、話を聞いて歩く。自分が生き残ったことに忸怩たる思いを抱える人、彼らの死を考えることで人生が変わったという人、広島を絶対視すべきではないと語る人などが証言してゆく。
「相対化」とはどういう意味だろうか。個人の哀しみの中に閉じこもらない、ということなのか。ただ作品から立ち上がってくるのは、個別の経験そのものだ。亡くなった子どもたちも、生き残って今では老人となった人も。あくまで個人的な体験を核にしないと、戦争を否定する契機そのものが失われてしまうような気がする。
綾瀬はるかの朗読は素晴らしいが、聞き取りづらい点があるとすると、それは固有名詞が頻繁に出てくるせいだ。そしてそのことはこの朗読ではとても大事なことだと思う。人間は数ではない。名前を持った個人がこの場所にこの時間生きていたのだと固有名が語っているのだ。
「六学級の大隅美昭くんは、東京から疎開してきて、宮島の親類から通学していたのですが、ゆくえのわからない生徒のひとりで、焼けこげた弁当箱が唯一の形見になりました。」
「佐伯郡大野町の家で一学級の豊久正博くんは、お父さん、お母さんにみとられて八日の夜十一時に、亡くなりました。」
「五学級の山下明治くんは、三日目の九日明け方、お母さんにみとられて亡くなりました。…『死期がせまり、わたしも思わず、お母ちゃんもいっしょに行くからね、と申しましたら、あとからでいいよ、と申しました。』」
・・・
理不尽に固有名が消えてゆく。個別の悲劇こそが最大の悲劇なのだ、人間にとって。映画では紹介されなかったが、旧作「いしぶみ」の書籍には、山下明治くんのお母さんの短歌が最後に紹介されている。この思いはあらゆる理屈を超えて痛切である、と思う。
烈し日の真上にありて八月は
腹の底より泣き叫びたき
監督:是枝裕和
出演:綾瀬はるか
日本映画 2016 / 85分
公式サイト
トランボ ハリウッドに最も嫌われた男
ロサンゼルスの郊外、農場の中の大きな邸宅。風呂場で湯に浸かりながら書き物をしている男がいる。ダルトン・トランボ、映画の脚本家である。ハリウッドでは名の知られたトランボだったが、労働運動に参加しているということから、いわゆる“赤狩り”の対象となってしまう。第2次大戦後すぐ、米ソ冷戦が始まったころである。
トランボは世間からは「裏切者!」と罵られ、映画業界のブラックリストに載って仕事も出来なくなってゆく。さらに議会の公聴会で反発、議会侮辱罪で逮捕、投獄されてしまうのだ。
出獄したトランボは、家族を養うために安いお金でB級映画の脚本を量産。その一方で温めていた脚本を友人名義で発表する。友人の名前はイアン・マクレラン・ハンター。ハンターは、その脚本のタイトルを「ローマの休日」と名付けた。それはアカデミー最優秀原案賞を受賞するのだが…。
監督は「オースティン・パワーズ」のジェイ・ローチ。
「私は本作によって、世間にこんな問いを投げかけた。どうしてあれほど愛国心の強い作家が、他の人々の目に反逆者と映ってしまったのか?彼の反逆とは職を奪われ、投獄されるに値するものなのか?こうした問いかけが本作品の核心をなしている。当時は少数派の意見を述べるだけでブラックリストに載り、刑務所へと送られた。トランボが語ったように、異論を認めることが民主主義の基本なのに、だ。」
トランボが幼い娘に問いかけられるシーンがある。
「お父さんは共産主義者なの?」
「そうだ」
「お母さんは?」
「違う」
「私は?」
「じゃあテストしてみよう。君の大好きなハム卵サンドをお弁当に持って行ったとする。クラスにお弁当を持ってこなかった子がいたらどうする?」
「分けてあげる」
「もっと働けと言わないのか?」
「言わない」
「金利をつけてお金を貸さないのか?」
「貸さない」
「じゃあ君は共産主義者だ」
共産主義がどんなものかこれではよくわからないが、トランボが考えている社会の良くない在り様がこれで見て取れる。こういった状況に対するアンチな態度が彼の共産主義なのだろう。(映画では彼の生活は裕福であり、急進的な共産主義者からは嫌われているようだ。)
トランボの経歴を見ると、父親の他界で学費がまかなえず大学を退学。家族を養うためにパン屋で働くが、書くことの情熱に駆られて様々な雑誌に記事や小説を書き続けた、という。とにかく「書きたい男」なのだ。この「書く」欲求が、“赤狩り”にあっても衰えず、偽名で書き続けることでついにブラックリストのばかばかしさを証明してみせてゆく。大した男であり、大した才能だと思う。
しかし世の中こんな大した男ばかりではない。いみじくも映画の最後に彼は語る。
「英雄も敗者もいなかった。いたのは被害者だけだ。」
いくつもの歴史が教えてくれる。異論を排除し、社会を一色に染め上げようという政党や団体、政治家がいれば、それは間違った道を示しているということを。ジェイ・ローチ監督はさらにこう語っている。
「異端と愛国は両立する。つまり真の愛国者が、時には少数派の意見を擁護することがある。それが本作のテーマなんだ。」
監督:ジェイ・ローチ
脚本:ジョン・マクナマラ
原作:ブルース・クック「Dalton Trumbo」
主演:ブライアン・クランストン
アメリカ 2015 / 124分
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ブルックリン
アイルランドの田舎町。古い建物が並ぶ町並みの中に一軒の食材店がある。ケリーおばさんの店だ。ケリーおばさんは口うるさく、あからさまに上客だけを贔屓する意地悪な人。この店で売り子として働くエイリシュは、近く町を出ていこうと考えている。行く先はニューヨークのブルックリンである。
1950年代、不況下でアイルランドからアメリカへの移住が殺到したという。エイリシュもその一人、新天地で自分の生き方を試したいと考えたのだろう。エイリシュ役のシアーシャ・ローナンは、その強いまなざしがとても印象に残る。彼女は何を見つめているのか。私たちもその瞳の先を見つめ続けることになる。
ブルックリンではホームシックにかかり泣き暮らす日々を送るエイリシュだったが、やがて夜間の大学に通い、恋人(イタリア系移民)もでき、未来への夢が広がり始める。そんなあるときアイルランドから知らせが届き、帰郷を余儀なくされる。恋人は不安にかられ、帰国前に結婚してくれと頼むのだが…。
監督はアイルランド出身のジョン・クローリー。原作はやはりアイルランド出身のコルム・トビーン。脚本は「私に会うまでの1600キロ」も手がけたニック・ホーンビィである。
「これは母国を出た人の物語なんだ。別の国に住むことにした場合、その人はもはや母国に所属していないが、だからといって、住むことにした別の国にも所属していない。つまり、第3の国――流浪者の国の一員になる。」(ジョン・クローリー監督)
帰郷したエイリシュを待っていたのは、新たに発見した居心地のいい故郷だった。そこで古い知人の男性と再会し、愛を打ち明けられる。「ニューヨークに行く前がこんなだったら良かったのに…」エイリシュはためらい、選択を迫られる。果たして―。
「これは愛が複雑なものだということを語るストーリーだよ。それに、人の心は必ずしも一人の人だけに忠実とは限らないということ。頭とは違って、心では同時に2人を愛していると考えることができるのかもしれない。エイリシュが2人の男の一方を選ぶことは、どんな生活を送りたいかを選ぶことでもある。」(ジョン・クローリー監督)
人は人生の選択の岐路に差し掛かった時、何を判断の基準にするのだろうか。エイリシュの場合、結局は理屈ではない。生きる姿勢がそのまま前のめりになって思わず舵を切る、そんな勢いがある。映画「海よりもまだ深く」で樹木希林が演じた母親のセリフを思い出す。
「幸せってのはね・・・何かを諦めないと手に出来ないもんなのよ」
なかなか難しいよね、と思うが、決断するそのことによって人は強くなるものらしい。エイリシュを見ていてそう思う。映画の終盤、新たにブルックリンに向かうという見ず知らずの少女に、エイリシュはこう語りかける。
「国を離れると郷愁にかられて落ち込んでしまうけれど、その気持ちに耐える以外にできることはなにもないわ。でも、その思いは永遠には続かないし、太陽が顔を出せば、自分の人生はここにあると気づくはずよ。」
生きる姿勢のすがすがしさが胸を打つ。端正な画面の中、何とも清涼感あふれる映画である。
監督:ジョン・クローリー
脚本:ニック・ホーンビィ
原作:コルム・トビーン「ブルックリン」(白水社)
主演:シアーシャ・ローナン
アイルランド・イギリス・カナダ合作 2015 / 112分
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ふきげんな過去
不機嫌な顔をした若い女性が大写しになる。画面に見えないところから若い男が話しかける。「居ないだろうワニなんて」。女性はワニがいないか運河を見下ろしているらしい。行きたいところないの?と男が聞く。女がイライラして答える。
「ここじゃない世界」
高校三年生の果子(かこ・二階堂ふみ)の夏休み。家は豆料理を出す居酒屋で、女たちはいつも豆の皮をむいている。果子の母親、祖母、母親の従姉、その娘の小学生カナ。果子は皮むきを手伝いながら、いつも不機嫌である。
ある時、16年前に死んだと言われていた果子の母親の妹(小泉今日子)がひょっこり現れる。果子はますます不機嫌になるのだが…。
ある時、果子が小学生のカナと部屋の中で話している。
(果子)「面白さなんて期待するのが間違いでだいたい同じことの繰り返しのなかで感覚を麻痺させていくのよきっと」
(カナ)「何いってんのか分かんない」
(果子)「人生なんてそんなもんてこと」
・・・
(果子)「ずっと想像の範囲内のことしか起きないんだったらさ、別に実際経験する必要ないよね。」
不機嫌な人間は苦手だ。不機嫌は伝染する。近づくとこちらまで不機嫌になってしまう。不機嫌の原因を探って気分を良くしてあげようなんて親切心も、さらさらない。だからなるべく近づかないようにしている。あえて近づくとこういう心象風景が広がっているのか、と思う。
果子のイライラの原因は、とにかく未来が見えていると思っていることにあるようだ。人間の陥る誤解の一つは、現在が現在のままずっと続いてゆく、と感じることだと思う。同じようなことが延々と続く。それが嫌な人はイライラするのだろうが、現実は現在(分かった世界)がずっと続くわけじゃない。だからイライラする必要なんてないんだよ、と言いたいが、未来のことは結局誰にもわからないもんだから、そう思い込んでいるならまあいいやということになる。
監督は劇作家・小説家の前田司郎。長編映画は2作目である。
「僕たちには『時間は川のように上から下へと流れていて不可逆なものだ』という認識があると思います。でも個人の記憶の中では(…)過去と未来の区別がそんなきれいに付いていない気がするんです。(…)未来子と果子、そしてカナの3人は、同じ人物の45歳、18歳、10歳の断層で、ふつうは決して交わりません。でもそれを地層の断面図みたいに縦に並べてみたかった。」
果子の伯母未来子はかつて爆弾を作っていた。29歳の時、北海道で爆破事件を起こし死亡。果子にとって、過去からやってきた自分の未来がこの人、ということになる。ややこしい。
「伯母さん、なんで死んだの?」
「多分あんたと同じよ」
「何が?」
「あたしもつまらなかったの」
「そんな理由だけで全部捨てたの」
「そうね、ただ死にたかったのかも」
「死んでどうだった?」
「…生き返ったみたいだった」
未来が見えるという果子に、伯母の未来子が言う。
「あんたの見てる未来ね、それただの過去よ。」
そして付け加える。
「…見えるものなんて見てもしょうがないでしょう。」
理屈臭いが、セリフのやり取りがテンポ良くて笑える。笑っているうちに現実の層が少しずれて、自分を取り巻く環境も見かた次第なんだと思えてくる快感がある。面白い映画である。
監督・脚本:前田司郎
日本映画 2016 / 120分
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