妻に髪を切られながら毒づく中年男が映し出される。小説家の津村啓。彼は、妻が客の前で本名の「さちおくん」と呼ぶのが気に入らない。「面子が立たない」という。彼の本名は、衣笠幸夫。広島カープ往年の名選手衣笠祥雄と同姓同名だ。それが長く彼の人生に影を落としてきた、らしい。妻の夏子はそんなことで「面子がつぶれたりしない」と当たり前のことを言う。
ブツブツとなじる幸夫も幸夫だが、嫌がっているのに自分の好みだけであえてそういうことをする夏子も夏子である。お互いよく付き合っているなと感心する。幸夫には妻に対する憎しみさえ感じる。このあと夏子はバス旅行に出かけ、幸夫は愛人を家に引き入れる。そして翌朝、夏子を乗せたバスが谷底に転落する…。
原作の小説、脚本、監督は西川美和。
「日常の中で、近くに居るひとのことをなおざりにし、小さな諍いを起こし、どうせ夜には帰ってくる、明日だってある、またいくらでも修復のチャンスはある、と思ってそのままあっけなく手の中からこぼれ落したような縁も、私自身人生の中ですでに経験をしています。そしてその苦い別れの経験は、多くの場合誰にも語られることはなく、残された人の胸の内で孤独にわだかまり、ひそかに自らを責め続け、いつまでも癒えることはないでしょう。」
映画では夏子のことがあまり語られないため、一方的に幸夫が妻を憎んでいるように見える。亡くなってからも天国にいる妻に毒づく。いったい何なのかと思うが、想像するに妻のある態度がこの男を深く傷つけてきた。それを憎み続けているうちにふいに居なくなった。憎んでいるはずなのにその対象がいなくなってバランスを失う。つんのめる。あちこちぶつける。また人を傷つける。
事故後、幸夫は一緒に亡くなった夏子の友人の夫、陽一と知り合う。陽一はトラックの運転手で、2人の子供がいる。幸夫はなぜか(小説のネタになると思ったのか)長男の勉強を応援するために、週2回自分が妹の面倒を見ると提案する。幸夫と子どもたちのシーンはとりわけいい。子どもとはこんなにも愛しいものなのかと改めて感じさせる。だがやがて幸夫の中の「虫」がまたうずき始める。
その「虫」とは言葉だ。言葉が体の中を這いずり回り、外部の何かに接するとうごめき毒となって吐き出される。言葉で世界を理解しようと悪戦苦闘し、言葉におぼれ、人がどう思おうと自分の言葉を吐き出さずにいられない。人がどう思おうと、という意味で「幸夫くん」とあえて呼ぶ夏子と同じである。
「虫」が暴れて人も自分もさんざんな目に会ったある時、幸夫は言う。
「自分を大事に思ってくれる人を、簡単に手放しちゃいけない。みくびったり、おとしめたりしちゃいけない。そうしないと、ぼくみたいになる。ぼくみたいに、愛していい人が誰もいない人生になる。」
そして一人夜の客車にうずくまりながら書きつけるのだ。
「人生は○○である。」 (○○は映画で確認してもらえればと思います)
それにしても題名の「言い訳」とはいったい何の言い訳だろう。
結婚した当初の愛情が続かなかったことの?
亡くなってもなお憎しみが消えないことの?
人生は○○である、なんて言葉で理解したつもりになることの?
関係をつなごうとしないのにやはりひとりではいられないことの?
そのためにまた人を傷つけることの?
でも生きていることの?
それでも生き続ける人間というものの?
生きていることは誰かに対する永い言い訳である。それが誰か、は重要ではない。その誰かが存在することが重要なのだと映画は告げている。
原作・脚本・監督:西川美和
主演:本木雅弘、深津絵里、竹原ピストル
日本 2016 / 124分
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