湾生とは、戦前台湾で生まれた日本人のことを言うらしい。日清戦争で台湾を得た日本はその後50年にわたってこの島を支配した。その間多くの日本人が海を渡り、多くの日本人がかの地で生まれた。しかし、敗戦後彼らの多くは本土に送還された。その数20万という。
この映画は湾生たちの生まれ育った台湾への思いを綴り、自分が何者であるかという問いに答えるための旅に密着したドキュメンタリーである。あるひとは、生まれ育った花蓮港に幼なじみの消息を訪ね歩き、あるひとは生家を探し出すために何度も訪れる。旅を続けることで、それぞれが自分の人生を耕している。80歳を超える高齢であるにもかかわらず、不思議とすがすがしい印象を残す。
監督は台湾人のホァン・ミンチェン(黄銘正)。46歳の彼は、当初「湾生」のことはまったく知らなかったという。
「私はこの映画を“歴史的な観点”から撮りたいとは思いませんでした。それよりも、戦争で様々な苦難にもまれてきた人々の運命、そして、その人々がどのような気持ちでこの人生を過ごしてきたか、記憶とはいったい何なのか、それらにまつわる貴重な証言をこの映画のなかで描きたかったわけです。彼らのあたたかさ、包容力、人間の豊かさを描く映画にしたいと思っていました。そして、そのあたたかさを映画の核とし、その中心には異邦人とは何かということを据えました。」
湾生たちの多くは戻ってきた日本に違和感を覚えていたようだ。おそらくは日本で生まれた日本人ではないという理由で周囲のまなざしが冷たく、苦労を重ねてきたのだろうと想像する。
85歳の家倉多恵子さんもその一人だ。彼女は五木寛之の著作で「異邦人」という言葉を見出し、自らが「異邦人」であると深く納得する。そして体の不調が続く中で台湾を訪れ、不思議なことに健康を取り戻すに至るのだ。
この映画で、大きな軸となっているのは、幼いころ養女に出されたために戦後台湾に残り、80年もの間実の母親を探し続けている片山清子さんの存在だ。片山さんは今病床に伏しており、その娘と孫が片山さんのために日本の岡山や大阪を訪れる。
実の母親はどんな人だったのだろうか。片山さんのことをどう思っていたのだろうか。戦後どのように暮らしてきたのだろうか。娘や孫たちの旅は、彼女たち自身のルーツを探す旅でもあり、母が子を決して捨てたわけではないのだという事をすがるような思いで確認する、そんな旅となった。そのたびの果てに彼らが見つけたものとは何だったのだろう。
印象深いシーンがある。
娘や孫たちは大阪のとある町のアパートに、晩年ひとりで暮らしていたことを突き止める。そのあたりに知っている人がいるかも知れない。ある年配の男性は、撮影は駄目だが電話でならという事で話を聞かせてくれた。たどたどしい日本語で聞く片山さんの孫に男性が答える。
―親しい友人はいましたか?
「友人はいなかったようです…。」
片山さんの実の母、すなわち自分のひいおばあちゃんは、もしかすると幸福な人生ではなかったかもしれない。しかし、
「端正な人でしたよ…。美人でした…」
その言葉を聞く孫に少し嬉しそうな表情がよぎる。
湾生の人たちに限らない。人は自分につながる過去を知ることで、現在に生きる意味を知ろうとする。しかしその思いの激しさが、戦後70年あまりを生き抜いた日々の過酷さを思わせ、激しく胸をゆすぶる。
「水平線の向こうに、台湾が消えるまで歌っていた…」
台湾を離れる時に、家倉さんが船上で弟と歌ったという唱歌「ふるさと」が今、耳にこびりついて離れないでいる。
監督:ホァン・ミンチェン(黄銘正)
プロデューサー:ファン・ジェンヨウ(范健祐)、内藤諭 2016年 台湾 111分
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