満開の桜の公園の片隅にゴミに交じって一人の男が倒れている。棋士、村山聖25歳。この時七段。誰かに抱えてもらわないと対局場にも行けぬほどに体が弱ってしまっている。座っているのもやっと。しかし将棋を指すという情熱が彼の体を支えている。
村山聖(さとし)は実在の人物だ。幼いころからネフローゼを患い、プロ棋士になってからは膀胱がんに苦しみ、29歳の若さで亡くなった。この映画は亡くなるまでの4年間の村山の生きざまを綴る。
村山は勝つことにこだわる。将棋にこだわる。力及ばずに将棋の世界を去ってゆく同僚に、「お前は負け犬だ」と激しく罵る。脳の働きが鈍るから麻酔をしないで手術をしてくれ、と医師に言い放つ。純粋であり、ある意味で馬鹿である。
監督は「宇宙兄弟」の森義隆。村山を演じたのは松山ケンイチ。この役作りのために26kgも増量したという。
「村山さんの純粋さみたいなものは、絶対に汚したくなかった。ただの純粋さじゃなくて、尖った、しかもイキのいい純粋さ。勝負師というのは、すごく研ぎ澄まされて純粋な気がします。それを出すためには、演技みたいなもの、表現するということも捨てないといけなかった。」(松山ケンイチインタビューから)
ところが映画を見終わって、パンフレットを覗いて驚いた。村山の次の言葉が大きく紹介されていたからだ。映画の印象とはずいぶん違う述懐だったのだ。
「僕が勝つということは相手を殺すということだ、目には見えないかもしれないがどこかで確実に殺している。人を殺さなければ生きていけないのがプロの世界である。自分はそのことに時々耐えられなくなる、人を傷つけながら勝ち抜いていくことにいったい何の意味があるんだろう。」(原作より抜粋)
映画では紹介されなかったが、このような感受性を持つ人間が、勝負の世界で生きていけるものなのだろうか。もしこの言葉が本当なら、村山はこの思いを自らの内に押さえ込み、まさに命をかけた勝負を続けたことになる。
そこまでして勝負を続けずにはいられなかった村山。村山にとって将棋とは何か。ある時ライバルであり憧憬の存在である羽生善治との勝負を制した村山は、その夜羽生を飲みに誘う。福島の温泉街の小さな居酒屋。向かい合う二人。何のために将棋を指すのか、という村山の問いに羽生はこう答える。
「今日あなたに負けて死にたいくらい悔しい思いをした。」
「負けたくない?」
「その思いしかないでしょう。」
村山が言う。
「羽生さんが見ている海はみんなとは違う。」
「怖くなるときがあるんです。深く潜りすぎて、そのうち戻ってこれなくなるんじゃないかって…。」
「そこはどんな景色なんでしょうね。」
「村山さんとなら、一緒に行けるかもしれない…。」
決して洗練された映画ではない。しかし棋士たちの内面の思いを表わそうと不器用に挑むその手つきが、村山聖のごつごつとした生きざまに共振して、心を震わせる。
監督:森義隆
脚本:向井康介
主演:松山ケンイチ、東出昌大
原作:「聖の青春」大崎善生 講談社文庫