映画のあとにも人生はつづく

最近見て心に残った映画について書いています

ルース・エドガー

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久しぶりに映画館で映画を見た。検温、アルコール消毒、上下左右に開いた席。ただ席に関して言えば、ガラガラだった。映画のせいではなく、自粛のせいだろう。とても面白い映画だったから。(気分一新して、このブログの背景を変えてみました。)

 

ルース・エドガーというのは主人公の名前である。アメリカ・バージニア州の高校生。弁論部や陸上部で活躍し、学校の期待も大きいエリート学生だ。彼はアフリカ・エリトリアの出身で、少年兵として駆り出された戦火を逃れ、今は養父母に引き取られている。

 

ルース、というのは元の名前の発音が難しいからと、アメリカ人の養父母が新たに付けた名前だった。それは「光」を意味する。

 

養母のエイミーはある日、歴史教師のハリエットにルースのレポートを見せられる。ルースは、暴力を正当化する革命家フランツ・ファノンについて書き、そのことを危惧しているという。そのためルースのロッカーを無断で調べ、そこに禁止されている危険な花火を見つけた、というのだ。

 

プライバシーを無視するそのやり方に反発しながらも、エイミーはルースを信じ切ることができない。やがてルースに性的暴行の疑惑まで生まれてしまう。果たしてルースは、真っ当なエリート学生なのか、それとも…。このことをきっかけに、エイミー夫妻は自分たちの善意の行為のうちに潜む、真の感情に向き合わざるを得なくなるが…。                                                                                                                                                                                                                 f:id:mikanpro:20200614113536j:plain

 監督・脚本は、ナイジェリア生まれで外交官の父親とともに渡米したという、ジュリアス・オナー。 

「ルースは黒人のアイデンティティの最高と最低を表している。彼はさりげない輝きと魅力を持っていて、弁論も素晴らしく、才能のあるアスリートだ。しかし同時に、彼は少年兵として暴力の歴史も持っている。・・・準備段階でケルヴィン(主人公を演じた俳優)にはふたつの手本を与えたよ。バラク・オバマとウィル・スミスだ。私にとって、彼らは格好いいが威圧的ではない男らしさをもった黒人の究極の例だ。カリスマ性や魅力は言うまでもなく、巨大なパワーと人気を誇っている。」

 

ルースは歴史教師のハリエットと、もともと折り合いが悪い。彼女が生徒にレッテルを張り、その役割を押し付けるからだ。

 

「僕に与えられた役は“悲劇を乗り越えた黒人”で、”アメリカの良心の象徴“なんだ。責任を感じて重荷だよ。」

 

周囲からの期待と、自分が自分自身であろうとすることとの板挟みに、ルースはだんだんと追い詰められてゆく。あるとき、教師のハリエットの自宅に大きな落書きがされ、危険な花火が教師の机の中で火を噴く。

 

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人にレッテルをはるな、枠にはめて人を見るな、とは常々言われる。ハリエットは黒人に枠をはめることを否定しながら、生徒に枠をはめることは意に介さない。ルースとの話の中でこんなことを言う。

 

アメリカが黒人を枠にはめてきたの。狭く、暗い、光のささない小さな箱の中に閉じ込めてきたのよ。」

 

その箱から抜け出すためには、白人が認める「役割」をこなさないといけない、とハリエットは言いたい。それが、黒人がこの社会で生きていくための唯一の方法なのだ、と。

 

だがルースにとって、役割を演じなければ生きていけない社会はどこかおかしいのだ。それは、現実を知らない若者の甘えた意見なのか、新しい世代の根源的な欲求なのか。今アメリカで起きているデモを見ると、ルースの感覚が真っ当なのだと思われる。しかし、映画の最後にルースがとった行動は、私たちの想像を超えて苦く厳しいものだった。                                                                                             

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 ルースのもともとの名前は何だったのだろう。彼は「ルース」でなく、元の「アメリカ人が発音のしにくい名前の人間」であることを欲している。戦火を逃れ、優しい養父母に育てられながらそれが贅沢だというなら、そう思う社会が病んでいると思う。

 

監督・共同脚本:ジュリアス・オナー
主演:ケルヴィン・ハリソン・Jr、ナオミ・ワッツティム・ロス
原作・共同脚本:J・C・リー
原題:LUCE
アメリカ  2019 / 110分

公式サイト

http://luce-edgar.com/

あなたを抱きしめる日まで (2013年)

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イギリス。年老いた女性が、自らの若き日を回想している―。

ある日偶然に知り合った男性。一夜限りの関係。妊娠。恥とされ秘密裏に入れられたアイルランド修道院。休みのない労働の日々の中で、生まれた子と過ごせるのは一日一時間。しかしそれは、何にも代えがたい幸福の時だった。裕福な外国人が、修道院から彼を連れて行ってしまうまでは。息子アンソニー3歳、47年前のことだ。

 

その女性フィロミナは、以来アンソニーのことを忘れたことがない。そして半世紀たった今、自問する。

 

「一夜を楽しんだことと、嘘をつき続けるのは、どちらが罪が重いか」

 

フェロミナは娘に、実は息子がいるのだと打ち明け、会いたいと相談する。娘はたまたま知り合ったジャーナリストのマーティンに、ネタを提供する代わりに、アンソニーを探してくれないかと依頼する。

 

「息子が私をどう想ってくれたか知りたいの。私は毎日息子を想ってる」

 

元エリート記者で、三面記事に興味がないと最初は渋っていたマーティン。しかし、フィロミナとともに、アンソニーの消息を探っていくうちに、意外な事実が次々と明らかにされてゆく…。

                

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監督は、イギリス王室の内幕を描いた「クィーン」(2006)のスティーヴン・フリアーズ。この作品も実話だという。元記者のマーティンを演じたスティーヴ・クーガンは、製作と脚本を共同で担当した。

 

「本の主人公はジャーナリストで、彼と主婦フィロミナの体験談と生き別れた息子が基本的なテーマとして描かれている。しかし、僕たちは老人の女性と中年のジャーナリストという2人の旅をメインにしたかった。そんな2人が旅を通じてお互いを知っていく様子を描きたかったんです。教養があって皮肉的な中年の男と、労働者階級で皮肉とはかけ離れた性格のアイルランド人女性の人生の物語に。」(スティーヴ・クーガン

 

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アイルランドに渡り、かつての修道院を訪れたふたりには、何の成果もなかった。記録は火事で焼けてしまったという。残されていたのは、息子についての権利を放棄したというフィロミナの署名だけだった。フィロミナは罰を受けるために署名したのだという。

 

「何よりも罪深いのは楽しんだことよ」

「何を?」

「セックス」

 

フィロミナは信心深いカトリック教徒なのだ。マーティンは全くの無宗教らしく、フィロミナの宗教心と相いれずたびたび、時にはコミカルに衝突を繰り返す。

 

だがマーティンは、この修道院ではかつて、アメリカ人の金持ちに子どもを売っていた、という噂を耳にする。二人はアメリカに渡り、アンソニーの意外なその後を知ることになる。

 

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この作品は、スティーヴ・クーガンが言うように、二人の考え方の違いによって浮き彫りになる、フィロミナの驚くべき純粋な心が印象深い。しかしおそらく宗教が彼女を純粋にしたのではなく、彼女の心が宗教の純粋な部分に共鳴したのだろう。

 

修道院が行っていた悪辣な行為とその隠ぺいはマーティンを怒らせるが、フィロミナはあえてこういうのだ。

 

「シスター、私はあなたを赦します」

 

マーティンが苛立つように言う。

 

「それだけか?」

 

フィロミナが答える。

 

「赦しには大きな苦しみが伴うのよ。私は人を憎みたくない。あなたと違うの」

 

フィロミナとは、カトリック教会で尊敬されていた殉教した少女の名前と同じだという。この映画の原題は「Philomena」すなわち「フェロミナ」で、そこには信仰に生きる人を見つめる、製作者の率直なまなざしがあると思う。

 

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監督:スティーヴン・フリアーズ
脚本:スティーヴ・クーガン

主演:ジュディ・デンチスティーヴ・クーガン
原作:マーティン・シックススミス

原題:Philomena

イギリス・アメリカ・フランス  2013 / 98分

公式サイト

http://www.phantom-film.jp/library/site/mother-son/

 

午後8時の訪問者 (2016年)

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ベルギー、リエージュ。小さなクリニックで研修医に指導する女医がいる。ジェニーという。ひきつけを起こして子どもが倒れても、ぼーっと見守る研修医。ジェニーは研修医の態度が気に入らず、少し強めに注意する。その時、玄関のベルが鳴る。午後8時、クリニックを閉めてから1時間もたっていた。

 

「出なくていいわ。診療時間外よ」

 

しかし、そのあと注意した一言で、若い研修医はクリニックを出て行ってしまう。

 

「患者の痛みに反応しすぎるの。自分の感情を抑えなきゃダメ」

 

事情をよく知らないと、研修医はなんだか不思議な態度に見える。翌日、出勤しない彼に連絡すると、医者になることをあきらめたという。ジェニーは自分のせいではないかと悩むことになる。

 

さらに追い打ちをかけるように、昨日玄関のベルを鳴らした女性のことで警官が訪ねてくる。死体で発見されたという。防犯カメラには、何者かに追われている様子の女性が映っていた。

 

あの時、なぜ玄関を開けなかったのか、開けていれば死なずに済んだかもしれない。ジェニーは、身元不明で死んだ彼女が一体誰なのか調べ始めるのだが…。

                       

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 監督は、ジャン=ピエール・ダルデンヌリュック・ダルデンヌ兄弟。

「制作の背景としては、各国からの移民がヨーロッパに大挙して押し寄せているという事実があります。ただそれが出発点というわけではなく、以前から考えていた“医者を映画に登場させる”というアイデアを実現しようと考えたのが始まりでした。人の命を助けたり、死なないように治療したりすることが医者の使命ですが、その使命に反するようなことが起こってしまい、ものすごく責任感を感じた医者がいたらどうだろうというところから物語が生まれたのです。」(リュック)

 

ジェニーは思い立ったら行動しなくては気が済まないらしい。命を救う仕事をしているはずの自分が、偶然とはいえ誰かの死に加担したことになってしまった。責任感が強いと言えばその通りだが、その行動は執拗である。

 

映画は死んだ女性の身元を探っていく中で巻き起こる様々な騒動を、淡々と記録してゆく。サスペンスと言えばサスペンスだが、抑制されたトーンが日常の延長で起きる出来事だという印象を与える。

 

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この作品はすべてのカットにジェニーが映っている、と思う(確認してませんが)。そのためにこれはジェニーから見た世界ということになる。にもかかわらず彼女はほとんど感情を表に出さないために、印象として残るのはジェニーの「行動」そのものだ。

 

そしてその動きは監督によって厳しく制御されている。

「私たちは「この人物はこういう人だからこういうことを考えていて……」というような指示の仕方は一切しません。まずはその人物として動いてもらって、「動きが少し違う」「速さが少し違う」といったような指示をしていくんです。実際の動きを見ながら、マイナスなポイントを改善していくので、演技をつけるというよりは、“引き算”をしていく作業なんです。」(リュック)

 

ドキュメンタリータッチでありながら抑制されたトーン、という独特さはここからきているのだろう。            

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やがてジェニーの行動の余波が思わぬところに届く。それを目の当たりにすると、彼女の「行動」は医者としてすべきことの一つだったかもしれないと納得されてくる。

 

ある行動を起こすことのよしあしを考えさせるのは、前作「サンドラの週末」※と同じ。そして行動を起こすことは、意図せず何かを変えてしまう、ということも。

 

サンドラの週末 - 映画のあとにも人生はつづく

 

監督・脚本:ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ

主演:アデル・エネル、ジェレミー・レニエ、オリヴィエ・ボノー

原題:La Fille Inconnue

ベルギー=フランス  2016 / 106分

公式サイト

http://bitters.co.jp/pm8/index.html

牯嶺街少年殺人事件 (1991年)

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冒頭にテロップが流れる。

 

「1949年頃、中国から数百万人が国民党政府とともに台湾に渡り、だれもが安定を願った」

 

いわゆる外省人である。小四(シャオスー)はそうした外省人の公務員の息子だ。建国中学の入試に落ち、夜間部に通っている。

 

「しかし子どもたちは大人の不安を感じ取り、徒党を組んだ。脆さを隠し自分を誇示するかのように…」

 

小四と彼の周辺の子どもたちは14歳。年齢だけ聞くと随分と幼い印象だが、すでに町の派閥争いの渦中に放り込まれている。小四はなかでもつかず離れずの微妙な立場にいるが、普通に暮らそうとしてもいくつも火の粉が飛んでくる。

 

ある時小四は、小明(シャオミン)という同じ学校の少女(おそらく本省人)と出会いお互いに惹かれていくのだが、小明はかつてこの町を仕切っていた若者ハニーの恋人だった…。


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映画は不安定な台湾の社会状況を背景に、実在の事件、14歳の中学生による同級生殺害に至るまでの、子どもたちの心の葛藤を描いている。監督はすでに故人となったエドワード・ヤン

 

 「『牯嶺街少年殺人事件』は、本土であれ台湾であれ、中国の人民が、当局の公式的な歴史を強制されて委縮するあまり、記憶を取り戻そうとする関心すら持てなかった時代の物語である。この故意の忘却が私たちの心に巨大な空虚を生み、その結果生じた誤解や行き違いによって、権力者どもが人をたやすく搾取し、操る状況がもたらされた。『牯嶺街少年殺人事件』はそんな状況下での人間の尊厳、自尊心をめぐる物語である。」エドワード・ヤン

 

ハニーは対立するグループのボスを殺し、台南に身を隠していたがやがて戻ってくる。ハニー不在の時間にのし上がってきた少年、敵対するグループの少年たち、抗争は激しさを増してゆく。

 

一方、かつて学校のやり方に反発し、自分で物事を判断するようにと息子に教えていた小四の父親は、共産党とのつながりを疑われ、過酷な尋問を受ける。そしていつのまにか、学校に自ら頭を下げるようになっていた。その様子を教員室でみていた小四は、バットでランプを叩き潰し、退学になってしまう。そして小明が、金持ちの友人といい関係になっていることを知る。

 

小四は言う。

 

「運の悪い人が多すぎる。ハニーも言っていた。社会は不公平すぎる」

 

ただ小明には、小四には気づかない秘密があった…。

 

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何よりも画面の構図が美しい。その美しさを堪能できるだけのカットの長さ。4時間弱に及ぶその持続。映画に文体のようなものがあるなら、この映画には明らかにそのトーンがあり、一度惹かれてしまうと病みつきになる。

 

終盤で小四は小明に言う。

 

「僕だけが君を救うことができる。僕は君の希望だよ」

 

しかし小明は、

 

「助ける?私を変えたいのね。…私の感情という見返りを求めて安心したいわけ?自分勝手なのね。この社会と同じ。私は変わらないわ」

 

と突き放してしまう。

 

たとえどんな状態であれ、他人の手によって自分を変えられたくはない。自分を変えようとする者への嫌悪。変わらない社会にいら立つのではなく、社会にあわせて変わる人々が許せないのだ。

 

エドワード・ヤンは、台湾人としての、人間としての誇りをこの幼い少女に仮託した。それはしかし、背負うには大きすぎるものだったのだが。

 

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監督:エドワード・ヤン
主演:チャン・チェン、リサ・ヤン、ワン・チーザン
台湾  1991 / 236分

公式サイト

http://www.bitters.co.jp/abrightersummerday/

 

百円の恋 (2014年)

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一子(いちこ)という変わった名前の女がいる。町の弁当屋の娘で32歳。ろくに店を手伝わないでダラダラと過ごす毎日。生きているのさえ面倒くさそうな。今、妹が息子を連れて出戻っているが(名前は二三子)、いつも大喧嘩だ。ケチャップを頭の上からかけられて、家を出ることにした。

 

小さなアパートを借りた。アルバイトは百円ショップ。しかも夜中のシフト。ここはなんだか変わり者たちの巣窟のよう。時々意識が飛んであらぬ方向を見つめる店長、客がいようがおかまいなしで始終話しかけてくるおじさん店員、毎夜売れ残りの弁当をあさりに来るホームレス風のおばさん…。

 

アパートへの帰り道に小さなボクシングジムがあって、一子は、時折見かける狩野に惹かれていた。百円ショップではいつもバナナを買うので「バナナマン」と呼ばれているらしい。ある時、その狩野にデートに誘われるが。                                                        

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 監督は武正晴。映画の仕事がまったく無くなってしまって、脚本の足立紳と最後の作品を構想したという。 

「今まで自分たち(脚本の足立紳氏と武監督)は男の人を主題にした映画が多かったんで、最後くらいは女の人を撮ってみようよって。・・・かっこいい女撮りたい、じゃあかっこいい女ってどんなんだ、っていう話をしているうちに、戦う女とか、暴れる女とか、逃げる女とか、プロットを作っていくうちに『百円の恋』っていうものがだんだん出来上がっていったんですね。」

 

デートの最中、

 

「なんで私を誘ったの?」

 

と聞く一子に狩野は、

 

「断られないと思ったから」

 

と答える。百均でバナナ買うように。だから百円の恋か。

 

なんともしまらない関係の浮き沈みが続くが、少しずつ一子に生気がよみがえり、だんだん魅力的に見えてくるから不思議だ。一子は、狩野がボクシングをやめるのと入れ替わりにジムに通うようになるが、狩野が別の女のもとに去るとますます熱が入り、本格的になる。一子を演じた安藤サクラはこう語っている。

 

「自分の意志ははっきりもっているんですよね。こいつ嫌いってなったら嫌い、休憩時間になったら、はい休憩!タバコを吸うとなったら吸う、っていうその辺の人たちよりもよっぽどしっかりしているので、生温い感じのだらしない暗い女性にはしたくなかったんです。一子、いいやつですよね。」

 

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一子はやがてプロテストに合格。念願の試合もできることになった。ここからは「ロッキー」のノリで進んでゆく。動きもシャープでテーマ音楽が聞こえてくるようだ。もしかしたら勝てるかもしれない。たまたま狩野に出会った一子は、自分の試合を見に来るように誘う。

 

「俺、一生懸命な奴、嫌いなんだ」

 

と相変わらずの狩野。

 

「それで出て行ったの?」

 

そしてその日がやってくる…。                                                                 

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自堕落な日々のなかの一瞬の輝き、それはそれを見つめる人間に少しばかりの勇気を与える。また再び同じような自堕落に帰ってゆこうと、その記憶が何かを変えてゆくに違いないと思わせる。頑張る人にも頑張れない人にも。32歳まで生きててよかったじゃん、と思う。

 

監督:武正晴

脚本:足立紳
主演:安藤サクラ新井浩文
日本  2014 / 113分

公式サイト

http://100yen-koi.jp/index.html

めぐりあう時間たち(2002年)

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ロンドン郊外。川が静かに流れている。ひとりの女性が上着のポケットに大きな石を入れ、身を沈めてゆく。1941年、作家ヴァージニア・ウルフは夫への手紙を残して亡くなった。

 

「今までの私たち以上に幸せな二人は他にいません」

 

しかし映像は1923年に遡る。ヴァージニア・ウルフが「ダロウェイ夫人」を書き始めた日に。ヴァージニアは目覚めると一日を始めるのに少しばかりの気力がいる。椅子に座り、たばこを咥え、冒頭の一節を記す。

 

「花は私が買いに行くわ、とダロウェイ夫人は言った。」

                                                  

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2001年、ニューヨーク。小説の主人公と同姓同名のクラリッサ・ダロウェイも、目覚めると一日を始めるのに少しばかりの気力がいる。今日は友人の小説家の受賞記念パーティーをしなければ。クラリッサは同居人のサリーに言う。

 

「花は私が買いに行くわ」
                     

場面はめまぐるしく変わり1951年、ロサンゼルス。小説「ダロウェイ夫人」を枕元に寝ている主婦、ローラ。目覚めると今日は夫の誕生日だ。息子とケーキを作らなければならない。花は早起きの夫がすでに買っていた。

 

「花は私が買うべきなのに」

 

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「ダロウェイ夫人」をめぐる3人の女性たちの朝が始まり、時と場所を行き来する物語が幕を開ける。

 

これは2002年の作品。DVDを借りてみた。2度目のようだが、情けないことに1度目は全く覚えていない。監督は「ものすごくうるさくて、あり得ないほど近い」のスティーヴン・ダルドリー


「この3つのストーリーがどう絡まっていくのか、3人の関係は何なのかとミステリアスな興味も引きだされるだろう? それをサスペンスたっぷりに描くってことは、映画ならではのドラマチックな表現になると思ったんだよ。難しかったのは、3人のドラマは別々に進行していくのに、彼女たちの感情、映画のエモーションが、最後には同じラインに連なっていなくちゃならないこと。」(2003年 映画.comのインタビュー)

 

3人の女性はそれぞれに生きづらい何かを抱え、朝を迎える。彼女たちはそれぞれに人生を選択するが、その選択の“余波”がまた別の人生を生きづらくさせる。これは人生の選択とその余波の物語なのだ。
                   

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 ヴァージニアは精神的な病を抱えながら「ダロウェイ夫人」を書き、ローラはそれを読むことで人生の舵を切り、クラリッサはその遠い波をかぶる。間をつなぐローラは重要な役割を果たしていて、最後にこう語る。

 

 「もし後悔してると言えたらいいのに。きっと簡単よ。後悔してどうなるの?ほかに方法がなかった。重荷を一生負うわ。誰も私を許してはくれない。あの暮らしは死だった。私は生を選んだの」

 

 それぞれの生きづらさは、ほかの二人の人生と並べてみることで、ある普遍性を獲得するようになる。随分と複雑な構成なのに、ほとんど違和感なくまとまって、深い静けさをたたえているのはそのせいかもしれない。

 

またそれぞれの人生が断片的に見せられるためになお、それぞれが汲みつくせない秘密を蔵しているような気がして深く考え込んでしまう。そういう作品だ。

 

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終盤、年老いたローラは、ある年若い女性と言葉を交わす。その時に浮かべる控えめな笑顔は、自らの選択の余波の先にある、かすかな希望に違いない。

 

ヴァージニアの最後の手紙にはこう記されている。

 

「人生に立ち向かい、いかなる時も人生から逃れようとせず、あるがままを見つめ、最後に受け入れ、あるがままを愛し、そして立ち去る」

 

監督:スティーヴン・ダルドリー
主演:ニコール・キッドマンメリル・ストリープジュリアン・ムーア
原作:「THE HOURS―めぐりあう時間たち 三人のダロウェイ夫人」(集英社マイケル・カニンガム

アメリカ  2002 / 115分

 

レ・ミゼラブル

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2018年、フランスがサッカーW杯を制した。パリ郊外の団地に住む移民の子どもたちも狂喜し、フランスが一体となる場面から映画が始まる。

 

だが、日常に戻ったパリ郊外の団地では、不穏な空気がいつも流れている。パリの華やかさとは天と地ほどかけ離れた、貧しいゆえの鬱屈と不満。ほとんどが移民か、その子どもたちだ。周辺では麻薬売人の縄張り争いも繰り広げられる。そんな町に新たに赴任してきた警官がいる。ステファンだ。

 

先輩警官たちと見回りにでるステファンだが、先輩の差別的言辞や恫喝から、この町の警官は住民から一片の信頼も得ていないことに気づく。そんな時、ロマのサーカス団からライオンの子どもが盗まれ、盗んだ黒人少年を探すことになる。

 

少年はやがて見つかるが、逃亡しようとしたため先輩警官がゴム弾を発砲してしまう。顔に大けがを負う少年。しかし偶然、その様子をドローンで撮影していた若者がいた。公表されると暴動が起きるかもしれない。慌てた先輩警官は血眼になって撮影者を探し始める…。                    

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監督はラジ・リ。舞台となったモンフェルメイユの団地に生まれ育ち、今も住みながら数々のドキュメンタリーを制作した。この映画は、すべて実際の出来事に基づいているという。

 

「ワールドカップ勝利の歓喜はもちろん、新しい警官の着任、ドローン、ライオン泥棒とロマのエピソードもね。近所のあらゆる出来事、特に警官たちを5年間撮影しました。…私は今もここに住んでいます。それが私の生活であり、ここでの撮影が大好きです。ここが私のセットなんです!」

 

いつもドキュメンタリーで表現していることを、今回なぜフィクションとして映像化したのか。そこには特別な思いがあるような気がする。ドキュメンタリーでは描けなかったこととは何なのだろうか?

 

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それは警官という存在かもしれない。ステファンは新任だからなのか、警官としての正義感を正常に保った存在だ。大けがをした少年をほったらかしにしないで手当てしようとするし、ゴム弾を撃った先輩警官を問い詰めたりもする。

 

ゴム弾を撃った警官は言う。

「ここは俺たちの町だ。尊敬されているのは俺たちだけだ」

ステファンが返す。

「何が尊敬だよ。みな恐れているだけだ」

 

だが現実は、そのステファンのまっとうな感覚など通じないほど、警官への無数の怒りに満ちている。

 

「警官もサバイバルモードで、彼らにとっても厳しい状況です。本作は裏社会の人々を支持するものでも警官を支持するものでもなく、できる限り公平であろうとしました。…こうした警官たちの大部分は十分な教育を受けておらず、彼ら自身も同じ地域で過酷な境遇にあるのです。」   

         

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すべてを公平に見ようとするその視線は、映画の最後にも生かされる。最終盤、ステファンたちは絶体絶命の危機に陥るが、最後の最後でその審判は観客に委ねられるのだ。それは、見る側それぞれのレベルで想像すればよい、という監督の、観客に対するやさしさでもあると思う。

 

レ・ミゼラブルとはビクトル・ユーゴーの小説のタイトルでもあり、「哀れな人びと」を意味する。哀れなのは一体誰なのか、ぞしてなぜ人は哀れな行動をとってしまうのか。最後に小説の一節が紹介され幕を閉じる。

 

「友よ、よく覚えておけ、悪い草も悪い人間もない。育てる者が悪いだけだ。」

 

監督・脚本:ラジ・リ
主演:ダミアン・ボナール、アレクシス・マネンティ、ジェブリル・ゾンガ
フランス  2019 / 104分

公式サイト

http://lesmiserables-movie.com/