ポルト
ポルトガルの港町、ポルト。その日暮らしの青年ジェイクは、アルバイト先の発掘現場で、ひとりの女性とまなざしを交わす。考古学を学ぶ留学生の女性マティだ。その後不思議なことに、帰りの駅のホームで、入ったカフェで、ふたりはお互いを見出すことになる。
思い切って声をかけたのはジェイクだったが、「よそへ行きましょうと」誘ったのはマティだった。ふたりは幸福な一夜を過ごす。しかしマティには恋人がいた。翌日マティは恋人のもとに去り、ジェイクはその日から、この一夜の思い出に生きるようになる。
話しとしてはこれだけだ。映画はこのふたりに感情移入するようには作られていない。しかし、ふたりにとって二度とないこの時間を何度も反芻する。そのことで人生におけるある瞬間の重要性を寓話的に描き出す。その瞬間が、その後の人生にプラスであるかマイナスであるかは別として。
監督はゲイブ・クリンガー。ドキュメンタリー映画出身で長編劇映画は一作目だそうだ。なお製作総指揮はジム・ジャームッシュ。
「ジェイクとマティは、時間に囚われた人物です。彼らはある一夜に囚われている。ふたりとも、もうその夜を生きているわけではないのに、おそらく彼らは、その一夜のことを考え続けている。もしくは夢見続けているのです。心から共感できるジェームズ・ベニング(映画作家)の言葉があります。『時間なんてものは、ただの思い出に過ぎない』―これぞまさに、『ポルト』が言わんとしていることです。」
思い出に囚われると、現在と未来を見失う。敗残兵のようにうろつく。そしてかつて見つめあったカフェの窓ガラスから、在りし日のふたりを映画を観るように眺める。何度も何度も。やがてその思い出に出口が無くなる。
『時間なんてものは、ただの思い出に過ぎない』
そうだろうか。人はなぜ思い出に囚われるのか。それは「時間」が思い出を遠ざけるからだ。傷ついた思い出は「時間」が癒してくれるし、幸福な思い出は「時間」によって失われてゆく。マティはふたりの行く末を感じ取ってか、ジェイクにこのように語る。
「人は多くのことを忘れるけれど、忘れられたことは無くなったりしない。」
時間が流れていない世界があれば、そこに忘れ去られたものたちがうごめいているに違いない。私たちは変わらずにあるものに憧れる。以前ジャ・ジャンク―監督の「山河ノスタルジア」という映画の感想にもこう書いた。
「時の流れは多くの傷を癒してくれる。だから錯覚してしまうが、時の流れで色々なことが変わってしまうことに、実は私たちはとても傷つけられているのだ。・・・永遠に続くように思えた時間はいつか終わり、この雪もいつか止む。そのことに傷つき、同じそのことに救われる。」
至福の時間をたとえ持つことが出来てもそれは決して永遠に続かない。それでいいのだとも思える。変わってゆくことが、生きている証のような気もするからだ。
監督・脚本:ゲイブ・クリンガー
製作総指揮:ジム・ジャームッシュ
主演:アントン・イェルチン、ルシー・ルーカス
ポルトガル=フランス=アメリカ=ポーランド 2016/ 76分
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