映画のあとにも人生はつづく

最近見て心に残った映画について書いています

あのこと


あのことは決して誰にも話してはいけない。口にしただけで人は顔を背けて遠ざかってしまう。それが仲の良い友達であっても。

 

アンヌ(アナマリア・ヴァルトロメイ)はフランスの大学生。教師からは一目置かれる優等生だが、夜の酒場では友人たちとフランクに過ごす。寮で暮らしているため、真面目なクラスメイトからは非難を受けることもある。どこにでもいそうな学生だが、時代は1960年代のフランスであることが問題だ。

 

ある時、アンヌは自分の妊娠に気づく。医者に告げられた後の第一声は、

 

「不公平よ!」

 

だが、医者は何ともすることが出来ない。この時代のフランスは中絶が違法であるばかりか、助言や斡旋する人間にも懲役と罰金が科せられる。しかしアンヌには産むことは眼中にない。

 

「子どもはいつか産みたいけれど、人生と引き換えはイヤ。愛せなくなるかもしれない」

 

医者はもちろん、関わり合いになりたくない友人たちは、打ち明けられた瞬間にその場を去ろうとする。ここまで極端なのだろうかと思うほどだ。ここからアンヌの孤独で壮絶な戦いが始まる…。

 

 

監督はオードレイ・ディヴァン。今年ノーベル文学賞を受賞したアニー・エルノーの「事件」を原作にしたこの作品は、去年のヴェネチア国際映画祭金獅子賞を獲得した。

 

「中絶だけがこの作品の主題ではありません。主人公アンヌは社会的反逆者です。労働者階級の出身で、家族の中で初めて大学に進学しました。…アンヌはすべての希望を打ち砕くかもしれないある秘密を抱えながら、自分がいた世界と別の世界を行き来します。20歳にして、自分の居場所を探す運命に直面し、自分の未来が常に危険にさらされたとき、どんな行動をとるのでしょうか?」(オードレイ・ディヴァン監督)

 

アンヌの両親は近郊で、民宿のようなものを営んでおり、週末は家に帰って手伝いをしている。アンヌは両親の誇りであり、それをアンヌ自身もよく分かっているからこそ、ここで中退することなどできないと思う。必死になって伝手を探そうとするがうまく行かず、どんどん成績が下がってくる。

 

妊娠させた相手は行きずりの男で近くにはいない。妊娠はしょせん他人事で、アンヌがひとりで何とかするだろうとしか思っていない。アンヌは絶望のあまり、自分で火搔き棒のようなものを差し込んで堕ろそうとするが…。

 

 

カメラはアンヌのそばから離れず、アンヌを近接距離で映しながらアンヌと同じ目線で世界をみる。この追体験感覚が、映画の後半、肉体的な痛みを伴って映画を見る人間を襲う。まるでホラー映画のようであるが、これは原作者のアニー・エルノーが、あるいはその時代の多くの女性が、または今もどこかで誰かが経験している、紛れもない事実なのだ。

 

撮影に入る前、アニーは監督のオードレイにチェーホフの言葉を送ったという。

 

「正直であれ。あとはどうにでもなる」

 

 

監督・脚本:オードレイ・ディヴァン
主演:アナマリア・ヴァルトロメイ、ケイシー・モッテ・クライン、ルアナ・バイラミ
フランス  2021 / 100分

原作:アニー・エルノー「事件」(ハヤカワ文庫)

ABOUT THE MOVIE|映画『あのこと』 公式サイト (gaga.ne.jp)