映画のあとにも人生はつづく

最近見て心に残った映画について書いています

望み

f:id:mikanpro:20201015154941j:plain

 

高校のグラウンド。サッカーの試合が行われている。ゴールを狙う選手が倒れる。駆け寄るクラスメイト。画面は上空に切り替わる。埼玉県のある町が映され、やがてゆっくりと下降し、ある瀟洒な家のあたりを漂う。そこに挟み込まれる幸せな家族の写真―。

 

建築家の石川一登は、一男一女の4人家族。高校生の長男と中学生の長女。長男は何かと父親に反抗的な様子。会話からサッカーでケガした選手だとわかる。ある時、長男が夜中に出掛けたまま朝になっても帰ってこない。翌日のテレビで、遺体となった10代の男性が入った車が発見されるというニュースが流れる。

 

死体は息子?しかし車から二人の男性が逃げたとの目撃情報があり、息子はもしかすると加害者かもしれない。さらにもう一人、行方不明の男性がいるとの情報が。

 

母親は加害者であっても息子には生きていてほしいと願い、父親は息子が人を殺めるとは信じることができず、どちらかというと被害者であることを望んでいる。夫婦それぞれの「望み」が違う方向に向いて、家族の間にかつてない亀裂が走るが…。

 

f:id:mikanpro:20201015155028j:plain

 

監督は、「悼む人」の堤幸彦。 

「主人公・石川一登が自ら設計した家の中を覗くと、家族4人が幸せそうに暮らしているように見えます。ところがその美しくかっこいい家に暮らす“成功している家族”というフィルターはものの5分で剥がれる。ではこの家族の本当の気持ちは何なのか…原作を読んだとき、このテーマにものすごく深い興味を感じました。」

 

息子が加害者の可能性があることが伝わると、父親は仕事先の職人などから忌避され、注文を受けた客からもキャンセルされてしまう。「一生に一度の買い物ですから」と。加害という言葉から生じる恨みと穢れのようなもの。

 

加害者は、悪を抱えた存在で社会から抹殺されてしまう。一方被害者は、善なる存在で社会からは同情される。映画は息子が一体どちらなのか、映画はその2項対立に沿って進んでゆく。ただ、そんなに簡単に善と悪に分かれるのだろうかという疑問が残る。

 

f:id:mikanpro:20201015155126j:plain


もしかすると加害者かもしれないが、思わぬ形で何らかの関与をしてしまい、気が動転して逃げてしまったのかもしれない。もしかすると被害者かもしれないが、加害に何らかの形でかかわっていたかもしれない。そういうことはありうるはずなのだ。

 

親であれば、そのようなグラデーションの中に救いを求めるだろう。しかし、母親も父親も、加害被害の2項対立の渦に巻き込まれてゆく。そうさせたのは、世間という圧力だ。押し寄せるマスコミ、卵を投げつけ、壁にペンキで悪辣なことを書きつける人々。正義感というのは時に(いやかなり頻繁に)醜悪な行いをする。

 

最後に母親は、「息子に救われた」という。この言葉の持つ意味は大きい。この母親は本当に救われたのだろうか、救われたとしたら何から救われたのだろうか。

 

父親役の堤真一がテレビのインタビューで語っていた、「卵を投げつける側になっちゃいけないと思った」という言葉が強く印象に残る。

 

f:id:mikanpro:20201015155236j:plain

 

監督:堤幸彦
脚本:奥寺佐渡

主演:堤真一石田ゆり子、岡田健史、清原果耶

日本  2020 / 108分

公式サイト

https://nozomi-movie.jp/

 

ある画家の数奇な運命

f:id:mikanpro:20201006174053j:plain

1937年、ドイツ・ドレスデン。少年クルトは叔母エリザベトに連れられて美術館に来ている。そこではカンディンスキーなど、抽象画の世界を否定する学芸員の説明が行われていたが、エリザベトは「これが好きなんだけど」とクルトにささやく。

 

その帰り、エリザベトは並んだバスの前に立ち、運転手に一斉にクラクションを鳴らすようにお願いする。続けさまのクラクションの咆哮。恍惚となるエリザベト。見つめるクルト。

 

しかし、やがて精神のバランスを崩したエリザベトは強制入院させられ、ナチスによってガス室に送られる。叔母が強制的に連行されてゆく様を、少年クルトはじっと見つめているが…。

 

f:id:mikanpro:20201006174206j:plain

 

時代が移り、戦後東ドイツとなったドレスデン。絵を描くのが好きなクルトは、美術学校に通い始める。そこで恋に落ちたのは、叔母と同じ名前のエリザベトだった。しかし、エリザベトの父親は、実は叔母を安楽死させるようサインしたナチスの医師だった。

 

この映画は、現代最高のアーティストと言われる、ゲルハルト・リヒターをモデルにした実話だという。3時間の長編だが、時代の波に翻弄されながら生きるある芸術家の半生を描いて飽きさせない。監督は「善き人のためのソナタ」のフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク。なぜリヒターに興味を抱いたかについてこう語っている。

 

「リヒターの妻の父親が筋金入りのナチで、親衛隊中佐であり、安楽死政策の加害者だったと知ったからだ。リヒターの叔母は、その安楽死政策によってナチに殺害された。しかし、義父は処刑されるどころか、ソ連の捕虜収容所に3年いた後、そこの司令官の妻が難産だった時に、その妻の命と子供を救ったことから釈放された。」

 

f:id:mikanpro:20201006174302j:plain


これらのことはすべて映画に描かれるが、クルトは義父が叔母を殺したナチの高官だとはなかなか気づかない。単にいけ好かない官僚的な人間という印象だ。絵描きという職業になんの価値も見出していない義父は、ことあるごとにクルトに冷たく当たる。

 

東ドイツ社会主義的な壁画を描き、認められ始めるクルトだったが、何かが違うと思い始める。やがて妻となったエリザベトを伴い西ドイツに亡命、デュッセルドルフの芸術アカデミーに入学する。ここは現代芸術の巣窟のようなところで、みな自由に何かを創作していた。

 

思った通りのものを創る毎日のクルトだったが、何かが違う…。クルトはあるとき教授に自身の作品を見てもらう機会を得る。だが教授はこう言い放つ。

 

「お前は何者だ」

 

教授は戦時中、爆撃機が墜落し頭に大火傷を負うが、爆撃しようとしていたタタール人に救われる。その時タタール人が頭に塗ってくれた油が、今の自身を形作ったと語るのだ。

 

クルトはその後、白いキャンバスの前に何日も座り込むことになる。そして自身の独創的な絵画を思いつくのはほんの偶然の出来事だった…。

 

f:id:mikanpro:20201006174339j:plain

 

自分の内なる声に耳を傾け、理由は分からないが今とは違うことをしなければならないと思う。そしてそれを実行する。その信念の強さに驚く。実行するための様々な障害が人をひるませるのが普通だからだ。

 

さらにその道を歩むためにもまた壁が待ち受ける。それらの壁を乗り越えるために芸術家は己に問わなければいけないという。

 

「お前は何者だ」

 

と。

 

クルトはリヒターをモデルとしているから、世界的な賞賛を浴びることになるのは分かっている。しかしクルトのように生きて、リヒターのように成功しない人の方がはるかに多いのだと想像する。そしてそのことは決して不幸なことではない、ともこの映画は語っている。

 

なぜなら、クルトの前半生が、芸術抜きでとても充実したものとして描かれているからだ。妻となったエリザベトとの長い蜜月は、ある芸術作品のように美しい。

 

監督・脚本フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク
主演:トム・シリング、パウラ・ベーア、セバスチャン・コッホ
ドイツ  2018 / 189分

公式サイト

https://www.neverlookaway-movie.jp/

 

行き止まりの世界に生まれて

f:id:mikanpro:20200917215501j:plain

早朝。立ち入り禁止の廃墟ビルに侵入する若者たち。だが、底が抜けたようなスカスカの非常階段を上っていくうち、ひとりが怖くなってやめようと言い出す。死にたくないからな―。するとみんな同意して降りてゆく。なんとも締まりのないオープニングだが、そのあと緩やかな駐車場のらせんスロープをスケートボードで滑降、無人の町を疾走してゆく映像がとんでもなく美しい。

 

ここはアメリカ、イリノイ州ロックフォード。アメリカのラストベルト(錆びついた工業地帯)と呼ばれる町だ。これはこの町に暮らし、スケートボードで友情を培った3人の若者のドキュメンタリー。その映像の蓄積は実に12年に及ぶ。

 

スケボーは統御、コントロールさ。人生と同じ。細部までコントロール出来なければこのくそ社会で生きていくことは出来ないから」

 

「スケボーはドラッグのようなものさ。精神的にギリギリでもこれがあれば大丈夫」

 

f:id:mikanpro:20200917215540j:plain


若者たちは3人。父親から暴力を受け家族になじめない、キアー。恋人との間に赤ん坊が生まれ父親となった、ザック。そしてスケボー仲間であり、二人を撮影しているこの映画の監督の、ビン。

 

「彼(キアー)が父親の話をするのを聞きながら、僕は彼に自分を重ねていました。それはとてもエモーショナルな体験で、彼が葛藤する姿を前に『ただ話を聞いてあげたい』そう思い彼を撮り始めました。そしてある時ザックが父親になることを知り、親になってゆく彼とニナを撮らせてもらうことにしました。僕は、『大人になるとはどういうことか』に常に興味があったのですが、お手本になるような大人を探すというよりも、自分と同じように葛藤してるひとに光を当てたかったのです。」(ビン・リュー監督インタビュー)

 

最初は、宣伝文句からして「ラストベルト」に生きる若者たちの生活を通して、アメリカの現実を描く、という内容かと思っていたが微妙に違っていた。いや違っていないのかもしれないが、映画は進むにつれ、よりパーソナルな部分がクローズアップされてくる。

 

つまり、監督のビンの体験を紹介することで、それに沿って映画が形作られてゆくようになるのだ。ビンは義理の父親から暴力を受けていたが、母親はそれを見て見ぬふりをした。少なくともビンはそう考えている。ビンは母親にインタビューするため実家に向かう…。

 

f:id:mikanpro:20200917215705j:plain


 一方のキアーも父親から暴力を受けていた。その時のインタビユー。

 

ビン「ひどい体罰?…泣いた?」

 

キアー「そりゃもちろん。…お前は?」

 

ビン「泣いたよ」

 

キアーは父親に対して愛憎半ばしているようだった。父親が亡くなってからは、父親を否定的に考えなくなってゆく。アフリカ系アメリカ人のキアーは白人との彼我の差に直面するが、そんな時思い出すのは父親が語った言葉だ。

 

「父親が言ったんだ。また黒人に生まれたいって。何で?と聞いたら、黒人はいつも問題に直面しているからだ。白人が文句を言っているようなことは屁にもならないからさ」

 

また一方、恋人のニナと暮らし始めたザックは、子どもの面倒をだれが見るかをめぐって、衝突を繰り返していた。仕事もうまくいかず、イライラを募らせる。ニナによればザックはニナに暴力をふるっている。監督のビンには見逃せない事実だった。

 

f:id:mikanpro:20200917215800j:plain


 映画の終盤で、ニナへの暴力を打ち明けたザックは言う。

 

「認めたくないんだ。人生がこんなにくそなのは、俺が最低だからだって。逃げ道はない。こういう人生を選んだのは俺だ。」

 

なんという率直さだろうか。この率直さとニナに暴力をふるってしまう瞬間との間を、ザックは行き来している。誰しもが最高と最低の間を行き来しながら生きているのだ。

 

最後にビンはキアーに聞く。

 

「このドキュメンタリーをどう思う?」

 

キアー「セラピーみたいなものかな…」

 

ビン「…俺は自分の父親との経験を、お前の話と重ねて見てたんだ」

 

キアーは、「そうなんだ」というと、遠くを見て静かにほほ笑む。その表情がとてもいい。じゃあお前にとってもセラピーじゃないか、と言っているようで。いや、もっと多くのことを語っているようで。

 

f:id:mikanpro:20200917215842j:plain

 

監督・製作・撮影・編集:ビン・リュー

出演:キアー・ジョンソン、ザック・マリガン、ビン・リュー

アメリカ  2018 / 93分

公式サイト

http://bitters.co.jp/ikidomari/

ポルトガル、夏の終わり

f:id:mikanpro:20200903203704j:plain

ポルトガル、シントラ。ホテルのプールサイドにひとりの女性が降りてくる。誰もいないプールで水着をとって泳ぎ始める。イザベル・ユペールだ。高校生くらいの女の子がやってきて、

 

「写真を撮られるよ」

 

というが、

 

「私は写真映えするからいいわ」

 

と気にしない。

 

美しい海と歴史を刻んだ建物。街そのものが世界遺産であるシントラ。イザベルが演じるフランキーは、ヨーロッパを代表する老女優だ。夏の終わりに、彼女はここに家族や友人を呼び寄せた。ある目的をもって。

 

シントラにやってくるのは、息子のポール、義理の娘のシルヴィア、メイクアップアーティストのアイリーン、元夫のミシェル。イザベルが若く年齢不詳に見えるためか、だれが夫なのか息子なのかわかりづらいという難点がある。だがやがて、それぞれの関係性が見えてくると、不可思議な人生模様が浮かび上がってくる…。

 

f:id:mikanpro:20200903203813j:plain


監督はアイラ・サックス。

 

「僕は群像劇の映画に惹かれます。ストーリーを広げることで、19歳でも65歳でも、観客に多くの共感ポイントを提供できると感じています。本作は、中央に軸がある群像劇と言えるかもしれません。そして、人生の異なる様々な段階のカップルたちの映画ですね。ファーストキスをしたばかりの人もいるし、結婚を終わらせることを考えている人もいます。そして、人生のパートナーを失う危機に直面している人も。」

 

フランキーはまだ結婚していない実の息子を案じ、仕事仲間でよき友のアイリーンと結びつけようとする。それが旅の大きな目的だった。実はフランキーは病に侵され、死を宣告されているのだ。

 

「残された時間で 家族を幸せにしたい」

 

とフランキーは言うが、アイリーンはここに恋人と一緒に来て、この場所でプロポーズをされる。

 

シントラの街に家族と友人が集まるたった一日の物語だ。監督の言う「中央の軸」とはもちろん、老女優のフランキーだ。フランキーは女優として成功し、人生を謳歌してきたかにみえる。元夫のミシェルは、

 

「フランキーの後は、物事が変わる。人生が変わるんだ」

 

とまで言う。が、ままならないこともある。多くの無名の人と同じように。

 

夫や息子とのやり取りを通じて、そうした彼女の人生の一端を想像できる。それは想像にしか過ぎないのだが、想像だけにとどめておく、という監督の距離の取り方が一貫していて節度がある。

 

f:id:mikanpro:20200903203908j:plain

 

映画の終盤で、フランキーは思いもかけない場面に遭遇する。それは自分の死後、親しい人々がどのように生きていくか、という想像を裏切るものだったが、それゆえにあたたかな希望を感じさせるものだった。

 

そのあとのフランキー(イザベル・ユペール)の表情の長回しがいい。長く生きてきたひとりの女性の、人生に対する愛惜と諦観。このカットだけでもこの映画を見る価値があると思う。

 

f:id:mikanpro:20200903203949j:plain

 

監督・脚本:アイラ・サックス
主演:イザベル・ユペールマリサ・トメイ、ジェレミー・レニエ
フランス・ポルトガル  2019 / 100分

公式サイト

https://gaga.ne.jp/portugal/

グレース・オブ・ゴッド 告発の時

f:id:mikanpro:20200804212538j:plain

フランス、リヨン。街を見下ろす高台には古い大聖堂がそびえる。人々はここに長く祈りを捧げてきた。ところが…。

 

1970年から20年にわたって、少年たち80人以上に性暴力を働いた神父がいた。ベルナール・プレナ神父だ。この作品は、被害者の子どもたちが大人になり、プレナ神父と教会に対し戦いを挑む物語である。ほぼ実話だという。

 

40歳のアレクサンドルは、妻と5人の子どもたちに囲まれ幸せな家庭を営んでいる。ある日、プレナ神父が今も子どもたちに聖書を教えていることを知り、自らの経験を告発する決意をする。それが発端だった。

 

告発することを決意するには、おそらく相当な内的葛藤があったと推測されるが、そのあたりはほとんど触れられない。驚くのはアレクサンドルが、妻はおろか自分の子どもたちにも、これまで秘密にしていたことをさらりと話すことだ。国民性なのか性格なのか。

 

だが、事態はのらりくらりとしか進まない。教会は同情を示すが、肝心のプレナ神父に対する制裁などを行う気がまったくない。こうした成り行きに業を煮やしたアレクサンドルは、刑事告訴に踏み切るが…。

 

f:id:mikanpro:20200804212612j:plain


監督はフランソワ・オゾン。当初はドキュメンタリーを撮るつもりでいたが、取材した被害者たちはむしろフィクションに興味を持っていたので、方針転換したという。

 

「私にとって重要なのは、子ども時代に傷つけられた男性たちの心の奥を語ることと、彼ら被害者の観点からストーリーを語ることでした。彼らの経験と証言には忠実でありつつ、周囲の人々やその反応については自由に描きました。…彼らはフィクション映画の主人公になったのです。」

 

アレクサンドルは告訴したのだが、物語は別の主要人物が現れ、彼は後景に引いてゆく。このあたりは、事実関係の時系列を重んじるドキュメンタリーのにおいを色濃く残している、と思う。フィクションにしては不思議な構成なのだ。ただ、そのことで対決の物語はより複雑な、そしてそれ故に普遍的な人生の物語へと転調してゆく。

 

f:id:mikanpro:20200804212701j:plain


アレクサンドル以降に登場する人物は2人。「沈黙を破る会」を立ち上げるフランソワは、被害を受けたこと、それを公にすることで家族間のしこりを抱えるようになる。また、会の記者会見を見て名乗り出たエマニュエルは、人間的な弱さを抱え、そのことが戦いに不穏な影を投げかける。

 

前半が戦いの物語であるとしたら、後半は戦いの成り行きに沿いながら、関わった被害者の人生、人間性そのものが主題になっていると言っていい。

 

f:id:mikanpro:20200804212751j:plain


最初に告訴したアレクサンドルも、もちろん「沈黙を破る会」に参加し、後半の物語に登場してくる。そして終盤、初めて彼の内面を見つめるエピソードがつづられる。

 

会を立ち上げたフランソワが「信仰を捨てる」と告白したとき、信仰心が篤い彼は反対意見を述べるのだ。

 

「外に出てはいけない。改革は内部からやらないとだめだ」

 

ところがフランソワはこうつぶやく。

 

「何を言っている。何も変えられなかったくせに」

 

ショックを受けるアレクサンドル。同じ夜、息子にこう問いかけられる。

 

「父さん、今も神を信じてる?」

 

その時、彼はどう答えるだろうか。息子を見つめ返すアレクサンドルの表情の中に、私たちは内的葛藤をほとんど見せない彼の、本当の痛みのありかを垣間見ることになるのだ。

 

脚本・監督:フランソワ・オゾン
主演:メルヴィル・プポー、ドゥニ・メノーシェ、スワン・アルロー
フランス  2019 / 137分

公式サイト

https://graceofgod-movie.com/

 

はちどり

f:id:mikanpro:20200712122313j:plain

ドアの前で母親を呼ぶ女の子。呼び鈴を鳴らすが誰も応答しない。お母さん、お母さん…ふざけないで…。ドアを引っ張り、地団太を踏む。カメラが徐々に引いていくとそこが団地だとわかる。少女は不在の家族を呼び続ける。

 

ただこのファーストシーンと次のシーンのつながりはない。おかげで何かとても印象深い。少女はウニ。14歳。学校ではクラスになじめず、別の学校の男子と付き合い、いちゃいちゃする毎日。家では父親の言うことを聞かず叱られてばかりいる高校生の姉、父親の期待が大きい兄、そして母親。

 

時代は1994年とはっきり記される。韓国のこの時代の特徴なのだろう、父親が権力者のように振る舞い、家族みんなが家来か部下のようにそれに従っている。そしてこの1994という年が、のちに物語にとってとても大きな役割を果たすことになる。

 

ウニは時々兄に暴力を振るわれているらしい。ただ、それを仕方がないとあきらめる社会的空気があり、ウニは決してその空気に逆らうことはない。そんなある日、ウニは自分の耳の下にしこりがあることに気づく…。

 

f:id:mikanpro:20200712122336j:plain

 

物語は14歳の少女の日常が丁寧に描かれ、背景に見え隠れする当時の韓国社会の雰囲気がとても興味深い。監督はキム・ボラ。これが長編デビュー作という。

 

「単純な成長譚ではなく、人が生きるうえで感じるすべての感情を、少女の生活を通して見せたかったし、政治、社会、フェミニズムジェンダーといった様々な社会的問題を、少女の目を通じて、微細なところから見わたそうと努力しました。」

 

耳の下のしこりは、やがて入院手術が必要なものだとわかるが、そんな中、ウニが通う漢文塾に新しい女の先生が現れる。ソウル大を休学中というヨンジ先生だ。後姿が美しく、いつもどこか遠くを見ているような雰囲気の人だ。

 

f:id:mikanpro:20200712122419j:plain

 

先生が最初に黒板に書いたのは、

 

「相識満天下 知心能幾人」

 

という言葉。そして、意味の分からないウニたちに向かって

 

「あなたには何人くらい知っている人がいる?」

 

と問いかける。

 

「その中で、心の中までわかる人はどれくらい?」

 

少し虚を突かれたようなウニの表情。やがてウニは何事も受け入れてくれるヨンジに、次第に心を開いてゆく。あるとき、ウニは先生に聞く。

 

「自分が嫌になるときはありますか?」

 

「・・・何度も。・・・本当に何度も」

 

そして言う。

 

「悩んだときは自分の指を見るの。そして少し動かしてみる。何もできないと思っても、指を動かすことはできる」

 

f:id:mikanpro:20200712122516j:plain

 

ヨンジ先生はどんな過去を持っているのか。先生が現役の学生時代、民主化にむけた学生運動が盛んだった年代と重なる。男尊女卑の社会は学生運動下でも同じだったのだろうか。ウニの入院中一度だけ訪れたヨンジ先生はウニに言うのだ。

 

「暴力を受けたら絶対何寝入りしないこと。それだけは約束して」

 

f:id:mikanpro:20200712122725j:plain


ウニが病院を退院し、漢文塾に行くとそこにヨンジ先生の姿はなかった。すでに辞めたという。数日後、韓国を揺るがす大きな事件が起きる。

 

観客の意見で30代になったウニを見たいというのがあったそうだが、私はできればヨンジ先生の過去の物語を見てみたい。キム・セビョク演じるヨンジは、それほど静かで魅力あふれる人だったのだ。

 

監督・脚本:キム・ボラ
主演:パク・ジフ、キム・セビョク、イ・スンヨン
韓国=アメリカ  2018 / 138分

公式サイト

https://animoproduce.co.jp/hachidori/

その手に触れるまで

f:id:mikanpro:20200623214808j:plain

階段を駆けあげる男の子。トイレに駆け込むと携帯で連絡を取る。

 

「早くしないと遅れてしまう」

 

教室で数学の問題を先生と解く、先ほどの男の子アメッド。放課後の補習授業なのか、そわそわしながらも問題を解く。携帯が鳴る。すぐに出ていこうとするが、先生に途中の問題を最後までやるよう言われ、あわてて答えを言う。

 

放課後は導師との約束があるのだ。ただ、帰り際、アメッドは先生と握手をしようとしない。どうやら宗教的な理由らしい。

 

「大人のムスリムは女性に触らない」

 

しかし、帰宅するとこのことが母親を怒らせる。

 

「恩のある先生に、握手もしないなんて」

 

つい最近までゲームに夢中だった少年は、今や導師の教えがすべてだ。導師は、歌を通じてアラビア語を教えようとする先生を、「背教者」として名指しする。背教者は見つけ次第排除しなければならない。アメッドはナイフを懐に忍ばせ、教室の入口に立つが…。

 

f:id:mikanpro:20200623214830j:plain

 

脚本・監督はジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ

「自分たちを『よいイスラム教徒』だと盲信する人たちは穢れのある者、不浄な者を排除していきます。アメッドはまだ『生』に満ちていて、人生を謳歌する年齢です。そんな少年が、宗教のために生か死かで迷っている。彼が、生を、つまり人生を取り戻すことができるか。そして、人はなぜ絶対的な価値観を求めるのか? この作品は、そんな物語です。」ジャン=ピエール・ダルデンヌ CINRAインタビュー記事)

 

犯行は未遂に終わり、アメッドは少年院に入る。が、なおも執拗に先生を排除しようと策を練る。最初は嫌がっていた農場研修に行くことにしたのもそのためだ。そこで手に入れた歯ブラシを隠し持ち、自分の部屋の床を使って先端をとがらせて行く。

 

f:id:mikanpro:20200623214919j:plain
 

純粋であることは若者の特権かもしれない。自らが汚れていないだけに他者の汚れが目についてしようがない。そうした汚れを(汚れと感じたものを)排除することで、自分や社会が汚れないで済むと考える。事実はまったく違う上に、何が汚れかという認識がそもそも間違っているのだが、そう思い込むことができてしまう年齢なのだ。アメッドは13歳である。リュック・ダルデンヌもこう語っている。

 

「兄と一緒にこの映画を作るにあたって考えたのは『不浄なものへの讃歌』にしたいということでした。過激な思想はとにかく純潔に向かいがちですが、実際の人生、現実世界はそれほど純潔なものではありません。いろいろなものが混じり合っています。いろいろな人が出会う場所なのです。混じり合うこと。それこそが人生なのです。」(同上)

 

思い返してみれば、アメッドは女性との握手を避けるし、犬が自分の手を舐めるだけで、気になってしようがない。だが、彼にとっての不浄なものは、相手にとってきれいなものかもしれない。

 

f:id:mikanpro:20200623214945j:plain


                        
そんなアメッドに農場主の娘が好意を寄せる。彼女は大胆に彼に手を伸ばす。アメッドがいつもかけているメガネをとってこう言うのだ。

 

「メガネなしで私を見て・・・私は夢の中みたいにぼやけているのが好きよ」

 

それは一瞬にしか過ぎない。しかし、メガネをはずして見た娘は、アメッドにどのように映ったか。そこに、自分が思い込む現実と違うものが見えていたら…。何か救いのように美しいシーンである。

 

脚本・監督:ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ
主演:イディル・ベン・アディ、ミリエム・アケディウ、オリヴィエ・ボノー
原題:LE JEUNE AHMED
ベルギー・フランス  2019 / 84分

公式サイト

http://www.bitters.co.jp/sonoteni/


ダルデンヌ兄弟の映画について、過去の記事あります。ご覧いただければ幸いです。

サンドラの週末 - 映画のあとにも人生はつづく

午後8時の訪問者 (2016年) - 映画のあとにも人生はつづく