映画のあとにも人生はつづく

最近見て心に残った映画について書いています

我は神なり

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韓国の片田舎。やがてダムができて村は水没する運命にある。そんな村に、嫌われ者のキム・インチョルが数年ぶりに帰って来る。賭場や酒場、行く先々で面倒を起こす。高校生の娘が大学の学費にと貯めていた貯金にも手を付ける。ある時、飲み屋で喧嘩し殴られた相手が、詐欺で指名手配されていることを知る。

 

その男の後をつけてみると、最近村に建てられた大きな教会に入ってゆく。そこで男は若い牧師と一緒に、車いすの人間が立ち上って歩く「奇跡」を演じていた。「そいつは詐欺師だ!」と叫ぶインチョル。しかし村人は誰一人その言葉を信じようとしない。それどころかみな、水没後に建設されるという「祈祷院」のために、ダムの補償金をつぎこんでいる。

 

男の仲間は、必死で訴えるインチョルを半殺しの目にあわせる。若い牧師は騙されていることを薄々感じながら、何も言うことが出来ない。翌日、詐欺師の男は大学を諦めたインチョルの娘に、学費を出してやる…、とささやくのだが。 

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 監督は「新感染 ファイナルエクスプレス」のヨン・サンホ。「新感染」は実写映画だが、ヨン監督はもともとアニメーション作家だ。2013年に作られたこの作品もアニメ映画である。

 

「当初の企画から、『真実を語る悪人』と『偽りを言う善人』の対決を描くのが目標でした。私たちはしばしば、ある人が真実を語っているにもかかわらず、その語っている人のイメージが自分が望むものと違っていたり、自分が認めることのできない悪人であったりする時、彼の言葉を嘘とみなしてしまいます。逆に語っている人が善人だという理由で、彼の話をすべて真実だと思ったりします。これが、人が間違った信念を持つようになる契機だと思いました。」

 

娘は詐欺師の男のいいなりになって、町のいかがわしい飲み屋で働く。半狂乱のようになって娘を連れ戻すインチョル。「騙されている!」と言い募る父親に娘はこう答える。

 

「神に愛されていると言われた。人は神に愛されるために生まれてきたの。そうでないなら何で生きているの?」

 

人はなぜ生きるか、その答えは普通には簡単に得られない。しかし宗教はその答えを与えてくれる。そこにつけこまれるスキができるのだろう。ただ生きている意味を探すのは人間の性ではないだろうか。娘の質問に対するインチョルの答えはこうだ。

 

「運命だからだ」

 

そこには、「人はなぜ生きるか」という問いを拒否する強い思いがあるように感じられた。

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 そもそも騙されることは不幸なのか。インチョルの弟分の妻は病気で寝込んでいたが、教団の売る「奇跡の水」を飲み続け、天国に行けるようにと献金を急ぐ。はたから見れば騙されているわけだが、彼女が亡くなったとき、その死に顔の穏やかさに夫は感動する。このように穏やかに死ねるのは、信仰のおかげだというわけだ。自分たちのお金をつぎ込むだけだ。誰もそれを責めることはできない。ウソでも幸せをもたらすことが出来る。

 

映画は終盤になって怒涛の展開を見せる。善人に見える人は本当に善人か。悪人に見える人間は悪人なのか。何が善で何が悪か。真実とは?嘘とは?ーその混乱の中で、自分は何を拠り所に生きていけばいいのか、深く考えさせられる。失意のインチョンは最後にこうつぶやくのだ。


「俺は真実を言っただけなのに…」

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監督・脚本:ヨン・サンホ
声の出演:ヤン・イクチュン、オ・ジョンセ
韓国映画 2013/ 101分
 
公式サイト   

https://warekami-movie.com/            

We Love Television?

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深夜の住宅街。車の中である男の帰宅を待つ。帰ってきたのは欽ちゃん、萩本欽一だ。待っていた金髪の中年男は「大将!」と声をかける。驚いて振り向く欽ちゃん。

 

「もう一回視聴率30%の番組を作りましょう!」

 

というと、

 

「うわぁ、こんなにうれしい話をするの?最高だね。ほんと?最高だね。うわぁ……泣いちゃうよ、おれ。もう、欽ちゃん、泣いちゃう。」

 

と大感激。欽ちゃんは80年代、週に3本のレギュラー番組がすべて30%を超えるという伝説を持っている。その伝説をもう一度再現したい。30%超えを目指す番組の制作だ。この日から半年後の放送に向けて、萩本欽一70歳の挑戦が始まった…。

                        

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金髪の中年男の名は土屋敏男日本テレビのプロデューサーであり、この映画の監督だ。90年代、「進め!電波少年」で最盛期、やはり30%を記録した。映画は時に自身が登場し、時に欽ちゃんに預けたビデオを駆使して、番組完成までの半年間を克明に追ったドキュメンタリーである。

 

「この映画で、僕の積年の思いが完結しました。…僕にとって追いつきたいけど追いつけない師匠であり、常に動き続けている運動体、萩本欽一の最初で最後の貴重な映像になったと思います。」

 

番組の準備が進み、ディレクターとの顔合わせの場面で欽ちゃんはこんなことを言う。

 

「台本が出来てくると、ディレクターは面白くしようとして手を入れる。100%みなそうなの。だけど台本を面白くすると番組はつまらなくなる。だからそのままでいいの。手を入れないで。」

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この映画で欽ちゃんが繰り返し語ることがある。それは、「熱」だ。本番でタレントが出す「熱」に視聴者は惹かれる。「熱」を出すためにどうすればいいかを常に考えている。そのひとつは予定調和を避けることだ。本番でどうすればいいか困ったとき、タレントは必死になる。タレントの「熱」が出る。欽ちゃんはテレビがドキュメントであることを発見した、と土屋監督は言う。欽ちゃんが発見した鉱脈を掘り進めて行ったのが「進め!電波少年」の土屋監督自身だった。

 

「いまの若い人は、何をやるのでも、事前に安心したがるのかもしれないなぁ。テレビを作るのでも、やる内容を早く決めたがる。本番前に安心したいのね。番組の内容が決まれば、安心して、ずっと同じことをやっているわけだけど。でも、『安心したい』って何なの?テレビを観る人は、安心を観たいわけ?いや、『熱さ』を観たいんじゃないの?『夢中さ』を観たいんじゃないの?」(欽ちゃん)

 

あまり熱心に見ていなかったせいか、欽ちゃんが「型」を壊すことにこんなに熱心な人だとは知らなかった。欽ちゃんという「型」を壊すことに欽ちゃん以後のお笑いがあるのだと勝手に思っていたのだ。

                      

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土屋監督はさまざまなタレントを使い、欽ちゃんの素の面白さを引き出そうとする。そしてメインとなるコントの収録直前、出演者を巡ってある事件が起きる。欽ちゃんはこの事態に果たしてどう対処するのか…。この映画のクライマックスだが、あとで考えるとこれも土屋監督の演出ではないかと思えてきた。欽ちゃんの「熱」を引き出すための。どうも油断ならない男である。

 

ただ、そこまで視聴率にこだわらなくてもいいのでは?とか、30%超え週3本で100%視聴率男、というのもちょっと違うんじゃないか、とか感じる人も多いのではないだろうか。(確かにすごいことではあるのですが。)私が見た回では終了後にトークショーがあり、土屋監督が登壇し、こんなことを語っていた。

 

「我々は視聴率をビジネスツールとして考えるけれど、欽ちゃんの言う30%って、我々が考える30%とちょっと違っている。ただ純粋に、とんでもなく面白い番組を作りたいということなんだと思う。」
                      
70歳を超えてこの「熱さ」。トークショーでもう一人のゲスト齋藤精一氏はこんな風に語っている。

 

「ラストシーンで欽ちゃんがにこやかに歩く場面は、周囲に幸せを振りまく『花咲かじいさん』のようだ」 

 

この言葉に深く頷く。

 

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企画構成・監督:土屋敏男

出演:田中美佐子河本準一 ほか

日本映画 2017/ 120分
 
公式サイト 

http://kinchan-movie.com/

サーミの血

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妹の葬儀に出席を拒む老婆。息子に促されてしぶしぶ出かけるが、故郷に宿泊することはかたくなに拒む。老婆の名前はクリスティーナ。しかし、本名ではない。名前を捨て、故郷を捨てたのだ。老婆は、窓越しに見えるなだらかな丘陵を見つめながら過去を回想する。

 

1930年代のスウェーデン。トナカイを放牧して暮らす先住民族サーミのエレ・マリャは、妹と寄宿学校に入るため故郷を後にする。そこではサーミ語が禁じられ、スウェーデン語が強制されていた。周辺の人々も彼らに対する差別意識を隠さない。人類学者が研究という名目で学校を訪れ、まるで野生動物の生態を観察するように、屈辱的な格好をさせる。

 

学校で優秀な成績のエレ・マリャは、将来教師になりたいと打ち明ける、しかし女教師は

 

「あなたたちの脳は文明に適応できない」

 

と冷たく告げる。自分の出自に嫌気がさすエレ・マリャ。なぜスウェーデン人でなくサーミ人なのか。ある時、民族衣装を捨て近所のパーティーにもぐりこむ。そこで都会から来た青年と知り合い、その青年を頼って寄宿舎を出ようとするのだが…。                    

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監督はアマンダ・シェーネル。スウェーデン人の母親とサーミ人父親の間に生まれた。長編は初めてだが、短編ではいくつもの賞を受賞している。

  

「多くのサーミ人が何もかも捨てスウェーデン人になったが、私は彼らが本当の人生を送ることが出来たのだろうかと常々疑問に思っていました。この映画は、故郷を離れた者、留まった者への愛情を少女エレ・マリャの視点から描いた作品です。」

 

エレ・マリャは、監督にとってみれば祖母の世代にあたる。あの時代、自らのアイデンティティを捨てた人生は果たして幸福だったのか。ただ、周りの人間が否定し続ける自我を持ち続けることなど、果たして出来るものだろうか。同じ寄宿学校に行った妹は、スウェーデンかぶれしてサーミを見下し始めた姉が許せない。

 

「あなたは自分のことしか考えない。」

 

しかしあふれる程の自尊心があるエレ・マリャは、妹も寄宿舎も捨て都会に出てクリスティーナとなる。

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今、福祉国家として名高いスウェーデンは、どのようにして少数民族抑圧のこういった過去を克服したのだろうか。パンフレットにコメントを寄せた明治大学鈴木賢志教授の言葉は、その秘密の一端を告げているように思えた。

 

スウェーデンを理想の国と思っている人には、ぜひこの映画を見てほしい。ただしそれはこの国が実際には理想郷とはほど遠いことを知ってほしいからではない。このような、いわば『自国の闇』に正面から向き合う映画を作る人々がおり、それを正当に評価する人々がいることが、スウェーデンの本当の良さだからである。」

                                 

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映画の終盤で老婆エレ・マリャは再び、妹の葬儀場を訪れ、棺桶の蓋を静かに外す。民族衣装を着た妹が安らかに横たわっている。妹の顔に自らの顔を近づけ、ささやく。

 

「許して」

 

一体何について許しを乞うのか。映画は多くを語らない。しかしこのささやきがエレ・マリャの、これまでの人生への違和を感じさせて深い感慨を誘う。

 

監督・脚本:アマンダ・シェーネル
音楽:クリスチャン・エイドネス・アナスン
主演:レーネ=セシリア・スパルロク、マイ=ドリス・リンピ
スウェーデンノルウェーデンマーク 2016/ 108分

公式サイト

http://www.uplink.co.jp/sami/

ポルト

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ポルトガルの港町、ポルト。その日暮らしの青年ジェイクは、アルバイト先の発掘現場で、ひとりの女性とまなざしを交わす。考古学を学ぶ留学生の女性マティだ。その後不思議なことに、帰りの駅のホームで、入ったカフェで、ふたりはお互いを見出すことになる。

 

思い切って声をかけたのはジェイクだったが、「よそへ行きましょうと」誘ったのはマティだった。ふたりは幸福な一夜を過ごす。しかしマティには恋人がいた。翌日マティは恋人のもとに去り、ジェイクはその日から、この一夜の思い出に生きるようになる。

 

話しとしてはこれだけだ。映画はこのふたりに感情移入するようには作られていない。しかし、ふたりにとって二度とないこの時間を何度も反芻する。そのことで人生におけるある瞬間の重要性を寓話的に描き出す。その瞬間が、その後の人生にプラスであるかマイナスであるかは別として。                                                                                                                         f:id:mikanpro:20171017222204j:plain

監督はゲイブ・クリンガー。ドキュメンタリー映画出身で長編劇映画は一作目だそうだ。なお製作総指揮はジム・ジャームッシュ

 

「ジェイクとマティは、時間に囚われた人物です。彼らはある一夜に囚われている。ふたりとも、もうその夜を生きているわけではないのに、おそらく彼らは、その一夜のことを考え続けている。もしくは夢見続けているのです。心から共感できるジェームズ・ベニング(映画作家)の言葉があります。『時間なんてものは、ただの思い出に過ぎない』―これぞまさに、『ポルト』が言わんとしていることです。」

 

思い出に囚われると、現在と未来を見失う。敗残兵のようにうろつく。そしてかつて見つめあったカフェの窓ガラスから、在りし日のふたりを映画を観るように眺める。何度も何度も。やがてその思い出に出口が無くなる。 

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『時間なんてものは、ただの思い出に過ぎない』

 

そうだろうか。人はなぜ思い出に囚われるのか。それは「時間」が思い出を遠ざけるからだ。傷ついた思い出は「時間」が癒してくれるし、幸福な思い出は「時間」によって失われてゆく。マティはふたりの行く末を感じ取ってか、ジェイクにこのように語る。

 

「人は多くのことを忘れるけれど、忘れられたことは無くなったりしない。」

 

時間が流れていない世界があれば、そこに忘れ去られたものたちがうごめいているに違いない。私たちは変わらずにあるものに憧れる。以前ジャ・ジャンク―監督の「山河ノスタルジア」という映画の感想にもこう書いた。

 

「時の流れは多くの傷を癒してくれる。だから錯覚してしまうが、時の流れで色々なことが変わってしまうことに、実は私たちはとても傷つけられているのだ。・・・永遠に続くように思えた時間はいつか終わり、この雪もいつか止む。そのことに傷つき、同じそのことに救われる。」

→ 山河ノスタルジア - 映画のあとにも人生はつづく

 

至福の時間をたとえ持つことが出来てもそれは決して永遠に続かない。それでいいのだとも思える。変わってゆくことが、生きている証のような気もするからだ。                                                                                                                

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監督・脚本:ゲイブ・クリンガー
製作総指揮:ジム・ジャームッシュ

主演:アントン・イェルチン、ルシー・ルーカス
ポルトガル=フランス=アメリカ=ポーランド 2016/ 76分
 
公式サイト 

http://mermaidfilms.co.jp/porto/

わたしたち

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ドッチボールのチームを分けるためにじゃんけんをする。勝った方が味方を選ぶ。カメラはある一人の女の子の表情をとらえ続ける。いつ自分の名前が呼ばれるか、不安な面持ちだ。呼ばれないと参加もできない。じゃんけんの声と他の子の名前が次々に聞こえる。女の子はようやく最後に呼ばれた。しかし始まってすぐ、ラインを踏んだから「アウト」と言われる。しかも「アウト」と言ったのは味方の子どもだ。踏んでいないのに…。

 

「あの子、味方に言われてるよ…」

 

女の子の名前はスン。小学校の4年生。教室で友達はいない。幼馴染のボラがいるが、逆にその子から仲間外れのいじめを受けている。しかし夏休みに入ると、偶然転校してきた女の子と知り合い、とても仲良しになる。お金持ちだが両親が離婚して祖母と暮らすジアだ。もつれあうようにしてじゃれあい時間を過ごす二人。スンにとって幸福な時間。しかしある時、スンとジアの仲のいいことが、いじめっ子のボラに分かってしまい…。

 

監督・脚本は新鋭のユン・ガウン。この映画は「オアシス」のイ・チャンドンの企画で、脚本も共に練りあったという。

 

「実は大人の世界と子どもの世界はそれほど変わらないのではないかと思っています。大人の目には、子どもたちがとても小さな世界で、とても些細な出来事に向き合っているように見えるかもしれません。でも現実は、大人の世界が(実際よりも)大きく見えているだけではないでしょうか。」

 

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夏休みが終わり、再び教室の人間関係力学にもどると、ソンはまた居場所を無くす。ジアもボラのグループにからめとられてソンに冷たくあたるようになる。やがて感情のすれ違いが行き過ぎ、お互い触れてほしくない秘密をそれぞれが級友にばらしてしまう。どちらもプライドが傷つき、心が血を流す。大喧嘩する。

 

プライドというものはどうしてこう厄介なものなのか。小さな子どもも大人も同じ。そして国同士でも同じ。しかしプライドが無ければ生きてゆけない。どうすればいいのか。余計なのは、勝ち負け、他者との優劣に関わるプライドだ。それは比較することでしか生まれない。しかし生きてゆくために必要なのは、プライドというより「誇り」。誇りは自らの内にあり他と関係がない。それを静かに守り育てることができるか。

 

ソンとジアの二人は喧嘩しながら近づき、離れ、また近づきを繰り返す。微妙な距離を保ちながら。小さな二つの相撲独楽の様に。

 

「子どもたちは些細なきっかけで友だちとの関係がこじれたり距離が開いたりしても、相手を信じたり、守ってあげたいと思ったりします。何度失敗しても、好きな相手と友だちになりたいと願います。大人になるにつれて、そういう感情はなくなっていくような気がします。…(子どもたちは)きっと、いい意味で単純なんです。自分の心を大切にしていて、自分の心を守りたいから、相手を信じ続ける。…そのような単純な気持ちで生きていれば、人間関係を結びやすくなるのではないかと思っています。」

 

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ソンには幼い弟がいる。ユンだ。友達のヨノといつも遊んでいるが、いつもどこかを引っかかれたり叩かれたりしている。この日も目の周りが真っ赤だ。見かねたソンが尋ねる。

 

―どうしてヨノと遊ぶの?

―僕が叩いてね、そしたらヨノがここをバシーンと・・

―それでどうしたの?

―一緒に遊んだの

―やられたらやり返さないとダメよ

―でもそしたら、いつ遊ぶの?

―・・・

―ヨノが叩いて僕がまた叩いたら、いつ遊ぶの?

 

ジアと喧嘩をしているソンが、不思議な顔をして弟を見つめる。ソンはあることを決意する…。

 

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ソンは時々、弱い自分を押さえつけ振り絞るように自分の思うこと(本当の気持ち)を口にする。言い淀むが、思い切って言う。その表情と唇の動きがいじらしく、小さな勇気という言葉を思い出す。それは大人になって忘れてしまう種類の勇気なのかもしれない。しかし、とこの監督は言う。

 

「わたしたちは多様で複雑な理由で愛する人を傷つけ、愛する人に傷つけられる。それでもわたしたちは本当の気持ちを伝えることを諦めてはならない。」

 

監督・脚本:ユン・ガウン
企画:イ・チャンドン

主演:チェ・スイン、ソル・ヘイン
韓国映画 2016/ 94分
 
公式サイト 

http://www.watashitachi-movie.com/

三度目の殺人

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暗い川の岸辺にふらふらと歩く男。うしろから歩く男が不意にスパナを振り下ろす。顔にわずかな返り血を浴びた男は横たわった死体に火をつける。見下ろす顔が炎の照り返しに明るんで見える。今男は殺人を犯したのだ、とそう見える。普通に考えれば。

 

男は三隅。かつて殺人罪で長く服役していた。今回、すぐに捕まり自供もしている。弁護士の重盛は死刑を少しでも減刑させるのが仕事と考える。しかし三隅は事実関係や動機についてころころと証言を変え、弁護団を翻弄する。そんな折重盛は、被害者の娘が三隅を自宅に訪ねていた事実を突き止めるのだが…。

 

監督は、「海街Diary」「海よりもまだ深く」是枝裕和。 

「今回はまず弁護士の仕事をちゃんと描いてみたいと思いました。『そして父になる』の法律監修をお願いした弁護士の方と話をしていたときに『法廷は真実を解明する場所ではないと言われたんですよね。そんなの誰にもわかりませんからって。ああ、そうなんだ、面白いなと思ったんです。それなら結局、何が真実なのかわからないような法廷劇を撮ってみようと思いました。」                                            

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重盛にとって事実は問題ではない。つまり何があったかはどうでもいい。殺害したのが三隅かどうかも問題にならない。判明している事実から、量刑をなるべく少なくすることに専念するだけだ。しかし今回は勝手が違った。三隅が型にはまらない男だからだ。予想できないような理由で行動する(ように見える)男だからだ。重盛は三隅に興味を持ち、彼が何のために何をしたのかを知りたくなる。

 

「命は何者かに選別されている」

 

と三隅は言う。

 

「両親も妻も、何の落ち度もないのに、不幸のどん底で死んでいった」

 

三隅は小さな部屋で小鳥を飼って暮らしていた。捕まるときにすべて殺した。いや一羽だけ逃がした。この時、小鳥たちの命を手の内に握っているのは三隅だ。三隅は「その時の自分」のような存在を、自分の人生の上に重ね合わせる。小鳥のような自分の命を、手のうちに握っている存在。神?

 

そしてこう言うのだ。

 

「生まれてこなければよかった人間て、世の中にいるんです」

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神が裁かなければ自分が裁く、と言いたいのか。以前このブログで、「裁き」という映画を観たとき、

 

「事実を大切にしない社会で私たちは安心して暮らすことは出来ない。『人の運命や時には生死を決める人たち』が恣意的にふるまって平気な社会は恐ろしい。」

 

と書いた。事実を大切にしない社会。三隅はそのような社会に三隅なりのやり方で抗おうとしている。時に自分が「人の運命や時には生死を決める人」になってまで。三隅は三隅の考えで一本筋を通している。

 

人を裁くとはどういうことか。この世界に生きている限り、私は私が持っている欠点のために、やはり誰かに裁かれなければならないのだろうか。

 

中原中也の詩にこんなのがあった。

 

それよ、私は私が感じ得なかったことのために、

罰されて、死は来たるものと思うゆえ。

(羊の歌)

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三隅が殺したのかどうか。結局真実は分からない。不思議なもので、監督がそういう意図だ(真実は分からない)というと、そう見える。しかし同じ映画でもし、真実は明らかです、と監督が言えばそう見えるような気もする。何より冒頭で三隅の殺人シーンがあるのだ。

 

映画はクリアなものではない。私が生きる私の人生が、決してクリアなものではないように。

 

監督・脚本・編集是枝裕和
主演:役所広司福山雅治広瀬すず

日本映画 2017/ 124分
 
公式サイト 

http://gaga.ne.jp/sandome/ 

 

※以前書いた記事です

海街diary - 映画のあとにも人生はつづく

 海よりもまだ深く - 映画のあとにも人生はつづく 

裁き - 映画のあとにも人生はつづく

ダンケルク

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1940年5月、フランス北部の港町ダンケルク。英軍の兵士が町中をさまよううち、空からビラが降って来る。ダンケルクを包囲したというドイツ軍のビラだ。直後に銃撃。逃げ惑う兵士が海岸に出ると、数千もの連合軍兵士が砂浜を埋めていた。追い詰められた敗残兵の群れだ。彼らはここから脱出し、海峡をイギリスに渡って帰るのを待っているのだ。

 

映画はまずその無名の英軍兵士の目線で語られる。彼は何とか帰還船に乗り込もうと画策する。必死の思いで掃海艇に乗り込むが、今度はUボートの魚雷が襲ってくる。命中。沈没してゆく掃海艇。果たして彼は無事に帰還できるのか…。

 

監督は「メメント」、「インターステラー」のクリストファー・ノーラン 

「『ダンケルク』は時間との戦いを描くサスペンスだと、僕は捉えている。人々が生き残ろうとする姿を描くスリラーだ。彼らは9日間であそこを脱出しなければならなかった。敵はすぐ近くにいて、その時間が迫るたびに、生存のチャンスは減っていくのさ」          

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実はダンケルクに追い詰められた英仏連合軍は40万という。これだけの数の兵士をイギリスに帰すために、海軍は本国で民間船に呼びかけた。それに応じた船主たちは生命の危険をかえりみず、ダンケルクへと向かう。

 

映画は、防波堤の兵士たちの1週間、救助船の1日、この帰還作戦を空から援護する空軍パイロットの1時間を、カットバックしながら描いてゆく。

 

「今作の視点と構成を決めるのに、僕はかなりの時間を費やしている。その結果、僕は、3つの違った視点からこの出来事を語ることに決めた。それらは同時に起こってはいるが、それぞれにかかった時間は違う。…それらの話を一緒にし、緊張感をどんどん高めてゆく。普通の映画で言う、いわゆる“サードアクト”(構成上最も盛り上がるところ)を、今作では最初からやりたかったんだ。」(ノーラン監督)

 

撤退を待つ兵士たちは、防波堤にいれば空から攻撃され、船に乗り込めば魚雷に攻撃され、海に放り出される。その臨場感は半端なものではない。こんなところには間違っても来たくない、と思わせる迫力がある。そしてそのような過酷な状況の中で、人間のエゴがむき出しになる。

 

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陸と空と海。監督の言う3つの視点は、単なる視点にとどまらず、戦争における役割によって、それぞれが経験することの違いを浮き彫りにする。救助船の船長は、民間人でありながら戦場に向かう、勇気と節度あるイギリス紳士の理想。ドイツ戦闘機を撃墜する空軍のパイロットは、英雄。そして、撤退を待つ兵士たちは、弱く醜い人間として描かれる。

 

物語の終盤、救助船に助けられ本土に帰った兵士は、人々に罵られるかもしれない不安に怯える。しかし待っていたのは兵士たちへの称賛だった。新聞は撤退作戦の成功を高々と歌い上げる。そして対ドイツ戦争に向けて人々を鼓舞する文章を連ねるのだ。ぼろくずのような帰還兵は、仲間のためにその記事を朗読する。美しい言葉の羅列。しかし、彼らの経験した現実は美しくない。

 

敗残兵の不安、思いもしない称賛。醜い現実、美しい言葉。延々と読み続ける兵士。監督が描きたかった美しいイギリスの心は、美しくない真実の中でほのかに輝く。 

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監督・脚本クリストファー・ノーラン
主演:フィン・ホワイトヘッド、マーク・ライランス
アメリカ 2017 / 106分
 
公式サイト  

http://wwws.warnerbros.co.jp/dunkirk/